久慈という家へ遊びに行くといって家を出ましたが、翌朝、疲れて、青くなって帰ってきました。あれは、久慈なんかの家にいたのではなくて、朝までお宅にお邪魔していたのではなかったのですか?……どこもここもグッショリとぬれているので、どうしたのだとたずねると、私の手にすがって、死んだほうがいいというようなことを言いました……あなたが、相手にしてくれないので、飯島の澗へ身投げでもしたのでしょうか」
 あの日のことは、たれにも言わないと、愛一郎に誓った。サト子は目を伏せたまま、頑固に口をつぐんでいた。
「あなたは、愛一郎のような子供は、問題にもなにもしていられないらしい。美術館のティ・ルームで、お誘いしたとき、おいでくださらないだろうと、あきらめていましたが、気やすく来てくだすったので、いくらか希望をもちました……あなたが愛一郎の望みをいれて、この家で、いっしょに住んでくださるような将来があったら、どんなにいいだろうと思って、先走ったようなことを申しましたが……」
 サト子は、心にもなく笑いながら、
「ティ・ルームのテラスで、へんな女たちと仲間づきあいをしていたのを、ごらんになったでしょう。あたしって、とんでもない女かもしれなくってよ」
 秋川は、自若とした顔でこたえた。
「あなたが、どういう方だろうと問題じゃない。愛一郎が、あんなにまでお慕いしているひとだったら、私に、なにをいうことがあるものですか……戦前、この鎌倉で、くだらない情事が盛《さか》ったことがありますが、卑しい恋愛にふけった人間は、どんな卑しい顔になるものか、私はよく知っている……愛一郎があなたに熱中するようになってから、ひとがちがったようないい顔になった。ことに、この一週間は、顔に深味がついて、おもおもしいくらいにさえ見えます……あなたと愛一郎の間が、どんなことになっているか、私にはわかっているつもりです」
 おだやかに話をしているが、膝のうえにある秋川の手が、目に見えぬほど震えている。生きていれば、サト子の父も、これくらいの年になっている。子供のために、こんなにも悩んでいる父親のすがたを見るのは、サト子にとっても辛いことだった。
「愛一郎は、つまらないやつです。それは間違いのないことでしょうが、父親のひいき目では、あれはあれなりに、見どころがあるような気もしております……そういう点を、もういちど、認めてやってい
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