ただけますまいか」
 ひどい間違い……愛一郎が久慈という家へはいりこんで、警官に追いつめられた、みじめな行掛りに触れなければ、秋川を納得させることができないが、ここまで話が詰まってくれば、だまってばかりもいられない。
「愛一郎さんが、朝まで私の家にいたなんてことは、なかったんです。もしかしたら、久慈さんというお宅に、美しいお嬢さんでもいらして……」
 秋川は、首を振った。
「久慈という家もたずねて行ったら、十七八の美しいお嬢さんが玄関へ出ていらした……そのときは、私もそう思ったが、すぐ、まちがいだということがわかった……そうまでして、おかくしになろうとなさるのに、こんなことをいうのは、おしつけがましい仕業《しわざ》ですが……」
 これ以上、曖昧にしておくと嘘になる。サト子は思いきって、キッパリと言ってやった。
「おっしゃることは、わかりましたけど、正直なところ、愛一郎さんとは、一週間ほど前、たったいちど、お逢いしただけの関係なんですから、お考えちがいのないように」
 秋川は、困りはてたように、腕を組んだ。
「このうえ、押しておねがいするかいもないわけだが、あれを振り放しておしまいになるにしても、あまり苦しまずに、すむように……」
 言葉が、とぎれた。
 暖炉の中で、コオロギが鳴いている。
「愛一郎は、絶望して死ぬつもりでいるのかもしれない……それでは困りますので、せめて、あきらめられるところまで、あしらってやっていただけたら……嫌いなものを好きになってくれなどと、バカなことを申しているのではありません。ほんのすこしばかり、やさしくしてやって、いただけたらと思って……」
 サト子は観念して、うなずいた。
「愛一郎さん、どこにいらっしゃるのかしら?」
 秋川は、庭のむこうを指さして、
「あれは、四阿《あずまや》にいるはずです。さっき、ひとりにしておいてくれなどと、言っていましたから」
 サト子は、椅子から立ちながら、
「失礼しても、いいかしら?……愛一郎さんに、お話ししたいことがあるんです」
 秋川は、湿っぽい声でこたえた。
「あなたさまは、おやさしくっていらっしゃる」
 客間のつづきから庭へおりて、ガラスの囲いのある四阿の近くまで行くと、愛一郎がぼんやりと籐椅子に掛けているのが、茂りあったポインセチアの葉の間から見えた。
 しゃれた鋳金の把手《とって》をまわして四阿の
前へ 次へ
全139ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング