がうみたいだね……ともかく、ママのものにさわらないように、言ってきます」
「言いたいなら、言ってもいいが、乱暴な言葉をつかわないで、やさしく言いなさい」
 愛一郎は、家のなかに駆けこんで行った。
 愛一郎の父は、玄関のわき間を通って、客間らしい部屋へサト子を案内すると、
「けさ、亡妻の七回忌をやったままなので、失礼して、ちょっと着かえてきます」
 そう言って、部屋から出て行った。
 ひととき、百舌《もず》が鳴きやむと、山の深いしずけさが、かえってくる。
 黒樫《くろかし》の腰板をまわした、天井の高い客間の南側は、いちめんにガラス扉で、そこから谷を見おろす、ひろびろとした芝生の庭に出られる。芝生の端は、松林で区切られ、しゃれた囲いをつけた、西洋風の四阿《あずまや》が建っていた。
「やはり、来るんじゃ、なかった」
 サト子はソファに沈みこんで、あてどもなく芝生の庭をながめているうちに、うかうかとこの家へやって来たことを、悔みだした。
 愛一郎の父が、扇ヶ谷の家へと言ったのは、苦境から救いだすための臨機の弁で、ほんとうは、来てもらいたいのではなかった。それに、きょうは間の悪い折だったらしい。車のそばで、秋川の親子がなにを争っていたのか知らないが、なにかゴタゴタした空気が感じられる。
 勢いよく奥のドアが、あいた。
 警官かとも思わなかったが、サト子は、あわててソファから立ちあがった。
 すっきりとしたひとがはいってきて、しげしげとサト子の顔を見てから、歯ぎれのいい口調で、あいさつをした。
「あら、サト子さんだったのね?」
 東京へ帰ったら、否応なく訪問することになっている、山岸芳夫の姉のカオルだった。
 二十七にしては、老《ふ》けてみえるが、そのひとにちがいない。むかしから、似たところのない、ふしぎな姉弟だった。
 ざっとした空色のワンピースに、ストッキングなし……裸足《はだし》で、スリッパも穿いていない。
 髪をやりっぱなしにし、シャボンで洗いあげたように清潔な顔に、クッキリ眉だけかいている。ファッション・モデルのいう「荒れた」ようすをしているが、野性的で、それなりに、みょうな魅力があった。
「春ごろ、芳夫が日比谷でお会いしたんですって? いちど、お目にかかりたいと思っていたの……あなたに、忠告したいことがあるのよ」
 思い出のなかの山岸カオルは、飯島の澗の海へやってき
前へ 次へ
全139ページ中33ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング