びき、日陰になるところで、山茶花《さざんか》の蕾《つぼみ》がふくらみかけている。
 愛一郎は、目を細めて日の光をながめながら、無心にハンドルをあやつっている。うしろの座席から、秋川のくゆらす葉巻のにおいが流れてくる。
 サト子は、愛一郎の横顔をながめながら、口の中でつぶやいた。
「こまったことに、なりそうだ」
 空巣にはいったポロ・シャツの青年が、ナリをかえて自家用車の運転席におさまっているのを確認した以上、そのままに放っておくわけはない。車のナンバーは東京だし、秋川は鎌倉ではよく知られているひとらしい。二時間もすれば、空巣の青年が秋川のなににあたるのか、苦もなく調べあげてしまうだろう。
 木繁《こしげみ》のいただきから、棟《むね》の高い、西洋館の緑色の陶瓦があらわれだしている。
 しんと秋の日の照る、ひと気のない坂道をうねりあがり、苔《こけ》さびた石の門をはいると、ひろい前庭のなかの道を通って、白い船のような玄関の前で、車がとまった。
 むぐらのしげりあう荒れはてた花壇に、丈ばかり高くなった夏の終りのバラが、一輪、ひよわい花を咲かせている。
 サト子が、車からおりかけたとき、空鳴りのようなヴァイオリンの音をきいた。
 荒々しいまわりの風景をおししずめるように、なにかの曲のひと節を、高く、清く、ひき終ると、それで、消えるようにヴァイオリンの音がやんだ。
 愛一郎は、二階の窓のほうを見あげながら、沈んだ顔で父に言った。
「カオルさんが、来ています」
「そうらしいね」
「あいつ、ママの部屋へはいりこんで、ママのヴァイオリンをいじっている」
 秋川は、たしなめるように、言った。
「カオルさんのことなら、あいつ、なんていうのは、よしなさい。ママの墓参りに来てくれたひとのことを、悪くいうのは……」
「たれだろうと、ママの部屋へはいったり、ママの遺品《かたみ》にさわったりしちゃいけないんだ」
「なにを、おこっている?」
「パパが、言ったでしょう。あの部屋は、ママが生きていたときのままになっているんだから、家具を動かしたり、置きかえたりしては、いけないって」
「そんなことを言ったこともあるが、訂正してもいい……この家を、ママの生きていたときのままの状態にしておきたいなどというのは、高慢すぎるねがいだからね」
 愛一郎は、不服そうに鼻を鳴らした。
「きょうのパパは、いつものパパとち
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