、かかる寺院組織の完備は自然の発達に待つとすると従来の寺院組織は日本として誇るに足るものであります。
学林としても残っているし、寺院としても残っている。すなわち学問としても残っており、信仰としても残っている。こういうぐあいに一寸刻みにやって残しているのは、これは日本人がやったので日本人が偉いのだと思います。儒教でもそうであります。儒教はシナで出来たものでありますが、シナは儒教の国ではない。シナ人自身が儒教を棄ててしまった。棄てるばかりではない、全体儒教が分っていない。忠と説いても忠を徹底的に教えたのは日本人のみで、シナでは分っていない。儒教の精神を本当に理解しているのは日本人である。しかし震災の当時に日本唯一の孔子の像を焼いてしまった。誰一人これを助けにいかなかったのは遺憾でありますが、これは儒教は信仰として残ったものでないから、そうだったのかも知れませぬ。
そういう訳でシナは儒教の国ではない。シナの土地が痩せている。インドは仏教の国ではない。当時哲学的にはインドが一番進んでおった、けれどもインドは本当に仏教を理解していない。今頃になって気付いて、十年前の統計では三千人しか仏教徒と
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