松|連城《れんじょう》師、南條文雄博士が日本でかかる註釈を写して次第にシナに送って、そして南京の楊文会《ようぶんかい》氏がこれを出版して支那の学者は倶舎、唯識の論釈を読むことが出来るようになって、近頃唯識学者も出て研究もしております。玄奘三蔵以後に出来た唯識の研究書が本場のシナには紛失しておったのが日本には全部残っておった。でそれはシナにはなくて日本にばかりあるものと思っておりましたが、これも敦煌には残っております。こういうようなぐあいにこんなに大切な物が日本にある、その真価が向うの発掘によってますます認められたという形であります。こういうことを綜合して見まするというと、非常に大きな仏教文学というものが日本にあることになるのであります。
今一つわれわれが忘れてならないことがある。大乗の涅槃経は梵本が一冊も出て来ない。そこで小乗涅槃経によってシナ学者が偽作したものかと疑う人もあった。然るに中央アジアの出土品の中に大乗涅槃経の梵本があった、その後私は高野の無量寿院で弘法大師筆と称する梵本一軸を発見した。これは大師の筆でなく大師以前のインド人の筆である多分唐筆をもって書いたものらしい。全く大乗涅槃経の梵本の一部であった。もはや疑問はないこととなった。かくの如く仏教文学の必要な材料がたくさん存している。そしてそれを精選しての出版も四回も行われている。一つの宗教文学として、こういう偉大な文学を持っている宗教は他にはない。宗教のみならず他の方面にしても一つの題目でこれだけ大きな文学のあるということは他に類例がないであろう。仏教の偉大なる文学ということに西洋人が近頃眼を付け出したのである。
その文学が写本の侭でも残っており、大刊行物として精選して出した物も残っているということも、これも世界に類例のないことである。今まで出版しましたのは校正はするが古来の版本、写本と較べて校合して出版するということをしないのが多いのであります。なぜかと申しますと明の時代に明の皇帝が命じて校合して出したので、それをいまさら校正する必要がない。こういう説が行われた。これは困ったことだと思いました。
明治十七年出版の縮刷は相当に校合してありますが、私はどうかして古写本が校合する必要があるということを立証せんとして石山寺に参りまして、同寺の天平写本を調べました。天平時代に朝廷で写させたのは立派なものでありますが、これは余計ありませぬ。正倉院の正語蔵にあるが、その時には見ることが出来なかった。石山寺のは田舎写しの経本でありますが、とにかく天平写経である。それと較べて見たら大体分るだろうというので大般若経だけ持って行きまして石山寺で較べて見ました。そうすると石山寺に残っている写本の方が版本よりは遙かに良い。今まで度々刊行した物の中に半頁ばかりも落ちたのがある。それから文字のまるで違ったのがある。写本の方を見ると、こっちの版本の方は解することが出来ないような所が明瞭に解し得ることをも見付けましたが、その時にちょうど前のイギリス大使のサー・チャールス・エリオットがおった。この人はいま奈良に逗留して日本の大乗仏教を研究しておりますが、ちょうど私が石山寺に行って調べていると、来山して黙って私の調べを見ている。東寺でも二度きましたが青蓮院には前後三度きました。それから高野にいる時も一度きました。石山寺にいる時には二度きました。
私が「天平時代の写経を版本がいいか写本がいいか比較して見ている」といったら「結果はどうか」と尋ねる。「それは写本の方がよほどいい」というと「今まで出版する時に比較したことがあるか」「曽てなかった」「何故しないか」「理由は分らないが、古版本をそのまま用いたのである」「それじゃいよいよそれがいいということを知ったらお前はやる気か、やらぬ気か」「それはやったらどうだろうかという考えを決めようと思って見ているのだ」「それは直ぐにやらなければならぬ、これはいったい何時頃の物か」「西暦で七百五十年の奈良時代の物だ」「八世紀の物が、もし西洋にあったら、しかもそれがバイブルに関係した物であったら耶蘇教者は一寸刻みにして研究するだろう。それにこんなにたくさんあるじゃないか。天平の写経が石山寺に[#「石山寺に」は底本では「石寺山に」]十箱ある。こんなにたくさんある物を比較しないということは日本学者の恥だ。またこれを比較したが、それを出版しないということは不都合である」というような話をした。その日は帰ってまた翌日来る。同じ話をした。実は私が一切経を出版しますことを初めて決心しましたのはその時であります。それまでは費用のことを考え、出版後の売行きをも考え、今までも既に出しているのにまた出すというのは不必要だというふうにいろいろ考えておったが、写本が正しい、良いということが分
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