この目録もまだ出来ないのにまた雪山から梵本を七百部も持って来るのは不都合だと言わぬばかりに図書館から排斥せられ、時の総長の計らいで梵語研究室に置くこととなった。仕方なく自分の教室に保管した。そして毎年講義の時には梵経所得の苦労を一度は必ず話した。インドの鉄道を離れて、七十五哩山駕籠に乗って、高山を二つも越して雪山の中に入って、そこで集めたものであると自慢まじりの話をする。学生同志では袖を引いてもうあの話が出たか、いやまだ出ない、今に出るから見ていろというふうで、私が話し出すとみな見合って笑っているというような有様。所がこれが震災に役に立ち梵本が助かる因となった。
 震災の時にはいよいよ火が教室に燃え移った。そうするとその時に京都の高等学校からベース・ボールのために来て一高に宿しておった学生が逸早く駈けつけて私の教室にきて見た、巡査の剣で戸を破って中に入った。そして金塗りの洋書などをまず運び出しつつある、所が私の講義を聴いた学生が駈け付けて、「そんなのは大切じゃない、これが大切だ」と示した。梵本はみな赤い風呂敷に包んである。これを運び出すことにした。教室の外部にはコンクリートの溝がある、これに板を渡して溝を越えて庭前に運び出す、これは平生からの訓練であった、その通りにやって呉れました。それでその翌日私が行って見るとそこに高く積み上げてある。そこには避難民がやってきて、きれいな紙は持って行って使用する、火のたきつけに用いる、雑巾の代りに用いる、次第に消え失せつつある。所が今のフランネルのような布で包んである梵本は焚くと臭いから火を焚くには用いない。雨にさらされている梵本をすっかり集めて選び分けて調べると、七百三十部あったのが六百八十部くらい残っている。紛失したのは一割に足らない。殆ど全部残っているといって宜しい。それで非常に私は喜びまして、書物が無くなったら辞職しようといっていたのをとうとう停年まで生き延びるようになったのであります。

         六

 イギリスはインドの南方仏教小乗の一切経を出版しております。ロシアでは大乗一切経の梵語の原本を出版しております。これは帝政時代から出版しておりましたが赤化ロシアになっても今も続いて出版しております。赤化ロシアの方が他の国よりもよほど理解があるといって梵語学者の仲間では賞讃しております。シャムの皇帝は曽て小乗の一切経を出版され世界の学界に提供した。後にまた註釈全部を出版して世に弘めた。ビルマでは有志が出版し、セイロンでも有志が出版して普及を計っている。
 古代の出版から近時の出版まで合せますと三十の一切経があります。でこれは古い写本、版本みな大切でありますが、近時学者の手に成った校本も研究には欠くべからざるものであります。それをみな集めようというのがわれわれの野心であったのであります。その中で図書館に入っていたのは焼けましたのが多いのであるが、他に本願寺にもあるし、東北大学にもある。とにかく日本には三十の一切経がことごとく存在しております。これはわれわれの誇りとすべき事柄であると私は考えます。インドで出来た一切経もインドの本国にはありませぬ。シナで翻訳され刊行された一切経もシナには残っていない。日本まで文化が押し寄せてきて、それからは決口《はけぐち》がないから日本には全く留ったという訳であります。それから日本の古寺院に、非常に面白い図書が残っておりますが、その残っているものの中に近頃中央アジアの発掘によって知られたものは日本に存在していることが分った。日本はこれがために重きを為すことになったのである。
 これも序にお話したいと思いますが、中央アジアの発掘ということは世界に動搖を与えた学術上の大事件であります。日本は東方に偏在しているのでそんなことには関係ないであろうというように考えられるかも知れぬが、シナで無くなったもの、シナ四百余州に見つからぬものが日本にあり、中央アジアで発掘された出土品と日本にある保存物とを比較すると同一物である。それでシナ本国になくて日本に残っている古書は、西洋人は或いは偽作だといっておったものもあります。今度中央アジアから掘り出されて来ると日本のものと同じで偽作でなく真物であるということが分った。その二、三の例を申し上げますと、梵本というのは古いものは棕櫚の葉に書いた物である。これを貝葉《ばいよう》梵本と申します。それが日本には非常に古い物があります。今のインド人は日々用いつつある梵字は知っているが昔の梵字は知らない。然るに発掘品から見ると昔の梵字は日本に伝わるものと同一である。日本の梵字の形を見ますと中には四、五世紀頃のもある、推古時代奈良朝以前のインドのものが日本に将来されているのであります。それを一々調査しまして写真に撮っております。
 まず最
前へ 次へ
全18ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高楠 順次郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング