あった。この時代に鑑真和尚の医力が行われた、その薬に阿伽陀薬というのがある、アカダは毒消しの薬である。これも梵語である。万葉集にもある綿の名もインド直接ではないが中亜からきた語である。近時発掘したコータンという地がある。昔の名は豁旦《かったん》で、後には于※[#「門<眞」、第3水準1−93−54]といった、この国が絹の本場である、この国名が綿の名に顕われてカッタン又はコットンとなった。始めは絹綿であったが後には木綿となった、連音となったのでハタが木綿となってキハタ、キワタルと転じた、ワタとハタは同名である。織る材料もハタ(ワタ)といい、織った帛もハタといった、織る機械もハタといい、織る人をも秦(ハタ)と称した。これは皆コータンの地名からきたものと思う。
 こういうふうに探していったらまだたくさんありましょう。そしてこれはちょっと要らぬことのようでありますが、これが日本の国語または文化によほど関係があるということをお話しようと思って申上げたのであります。
 先にお話しましたように舞楽が今に残っており、その中にインドの舞楽があるのでありますが、それが臨邑からきた臨邑八楽が主であった。奈良朝の末頃になるとこれを娯楽に用いるようになった。法楽ばかりでなくこれを娯楽に用いるようになった。それがだんだん変って後の催馬楽にも、猿楽にも、能にも、狂言にも、影響して時代の音楽趣味を支配しながら、舞楽自身も元の侭でも残りまたその影響を受けた俗楽も今に残っているというふうであります。

         四

 これより前にもインド人が日本に来ております。摩迦陀国王舎城から出て来た法道という人がある。日本の文化に大なる影響を与えた人であります。播州の赤穂から上陸して法華経山または広峰山という山がある。そこに籠りまして、インドから持って来た仏天を祭っている。牛頭《ごづ》天王は祇園精舎の鎮守の神であるが、それに観音を礼拝していたのである。孝徳天皇がご病気であったので、宮中に参内して修法をした結果終にご恢復遊ばされた。その時に皇子が五人おいでになったのでありますが、五王子が陛下にお降りになって、父天皇の病気平癒に功能があったというので皆一同羅拝なされたということである。五王子羅拝の謝意を受けたのである。而して宮中に三カ月も留まりその間に仏教の様式を伝えたのであります。大蔵会というのはまた一切経
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