つた。夜《よる》は靜《しづか》で何《なん》の音《おと》も爲《せ》ぬ。時《とき》は留《とゞま》つて院長《ゐんちやう》と共《とも》に書物《しよもつ》の上《うへ》に途絶《とだ》えて了《しま》つたかのやう。此《こ》の書物《しよもつ》と、青《あを》い傘《かさ》を掛《か》けたランプとの外《ほか》には、世《よ》に又《また》何物《なにもの》も有《あ》らぬかと思《おも》はるる靜《しづ》けさ。院長《ゐんちやう》の可畏《むくつけ》き、無人相《ぶにんさう》の顏《かほ》は、人智《じんち》の開發《かいはつ》に感《かん》ずるに從《したが》つて、段々《だん/\》と和《やはら》ぎ、微笑《びせう》をさへ浮《うか》べて來《き》た。
『あゝ、奈何《どう》して、人《ひと》は不死《ふし》の者《もの》では無《な》いか。』
と、彼《かれ》は考《かんが》へてゐる。『腦髓《なうずゐ》や、視官《しくわん》、言語《げんご》、自覺《じかく》、天才《てんさい》などは、終《つひ》には皆《みな》土中《どちゆう》に入《はひ》つて了《しま》つて、旋《やが》て地殼《ちかく》と共《とも》に冷却《れいきやく》し、何百萬年《なんびやくまんねん》と云《い》ふ長《なが》い間《あひだ》、地球《ちきう》と一|所《しよ》に意味《いみ》もなく、目的《もくてき》も無《な》く廻《まは》り行《ゆ》くやうになるとなれば、何《なん》の爲《ため》に這麼物《こんなもの》が有《あ》るのか……。』冷却《れいきやく》して後《のち》、飛散《ひさん》するとすれば、高尚《かうしやう》なる殆《ほとん》ど神《かみ》の如《ごと》き智力《ちりよく》を備《そな》へたる人間《にんげん》を、虚無《きよむ》より造出《つくりだ》すの必要《ひつえう》はない。而《さう》して恰《あたか》も嘲《あざけ》るが如《ごと》くに、又《また》人《ひと》を粘土《ねんど》に化《くわ》する必要《ひつえう》は無《な》い。あゝ物質《ぶつしつ》の新陳代謝《しんちんたいしや》よ。然《しかし》ながら不死《ふし》の代替《だいたい》を以《もつ》て、自分《じぶん》を慰《なぐさ》むると云《い》ふ事《こと》は臆病《おくびやう》ではなからうか。自然《しぜん》に於《おい》て起《おこ》る所《ところ》の無意識《むいしき》なる作用《さよう》は、人間《にんげん》の無智《むち》にも劣《おと》つてゐる。何《なん》となれば、無智《むち》には幾分《いくぶん》か、意識《いしき》と意旨《いし》とがある。が、作用《さよう》には何《なに》もない。死《し》に對《たい》して恐怖《きようふ》を抱《いだ》く臆病者《おくびやうもの》は、左《さ》の事《こと》を以《もつ》て自分《じぶん》を慰《なぐさ》める事《こと》が出來《でき》る。即《すなは》ち彼《か》の體《たい》を將來《しやうらい》、草《くさ》、石《いし》、蟇《ひきがへる》の中《うち》に入《い》つて、生活《せいくわつ》すると云《い》ふ事《こと》を以《もつ》て慰《なぐさ》むることが出來《でき》る。
『其《そ》れとも物質《ぶつしつ》の變換《へんくわん》……物質《ぶつしつ》の變換《へんくわん》を認《みと》めて、直《すぐ》に人間《にんげん》の不死《ふし》と爲《な》すと云《い》ふのは、恰《あだか》も高價《かうか》なヴアイオリンが破《こは》れた後《あと》で、其明箱《そのあきばこ》が換《かは》つて立派《りつぱ》な物《もの》となると同《おな》じやうに、誠《まこと》に譯《わけ》の解《わか》らぬ事《こと》である。』
 時計《とけい》が鳴《な》る。アンドレイ、エヒミチは椅子《いす》の倚掛《よりかゝり》に身《み》を投《な》げて、眼《め》を閉《と》ぢて考《かんが》へる。而《さう》して今《いま》讀《よ》んだ書物《しよもつ》の中《うち》の面白《おもしろ》い影響《えいきやう》で、自分《じぶん》の過去《くわこ》と、現在《げんざい》とに思《おもひ》を及《およぼ》すのであつた。
『過去《くわこ》は思出《おもひだ》すのも不好《いや》だ、と云《い》つて、現在《げんざい》も亦《また》過去《くわこ》と同樣《どうやう》ではないか。』
と、彼《かれ》は其《そ》れから患者等《くわんじやら》のこと、不潔《ふけつ》な病室《びやうしつ》の中《うち》に苦《くる》しんでゐること、杯《など》を思《おも》ひ起《おこ》す。『未《ま》だ眠《ねむ》らないで南京蟲《なんきんむし》と戰《たゝか》つてゐる者《もの》も有《あ》らう、或《あるひ》は強《つよ》く繃帶《はうたい》を締《し》められて惱《なや》んで呻《うな》つてゐる者《もの》も有《あ》らう、又《また》或《あ》る患者等《くわんじやら》は看護婦《かんごふ》を相手《あいて》に骨牌遊《かるたあそび》を爲《し》てゐる者《もの》も有《あ》らう、或《あるひ》はヴオツカを呑《の》んでゐる者《もの》も有《あ》らう、病院《びやうゐん》の事業《じげふ》は總《すべ》て二十|年前《ねんまへ》と少《すこ》しも變《かは》らぬ。窃盜《せつたう》、姦淫《かんいん》、詐欺《さぎ》の上《うへ》に立《た》てられてゐるのだ。であるから、病院《びやうゐん》は依然《いぜん》として、町《まち》の住民《ぢゆうみん》の健康《けんかう》には有害《いうがい》で、且《か》つ不徳義《ふとくぎ》なものである。』
と、彼《かれ》は思《おも》ひ來《きた》り、更《さら》に又《また》彼《か》の六|號室《がうしつ》の鐵格子《てつがうし》の中《なか》で、ニキタが患者等《くわんじやら》を打毆《なぐ》つてゐる事《こと》、モイセイカが町《まち》に行《い》つては、施《ほどこし》を請《こ》ふてゐる姿《すがた》などを思《おも》ひ出《だ》す。
 其《そ》れより又《また》彼《かれ》は醫學《いがく》の此《こ》の近《ちか》き二十五|年間《ねんかん》に於《おい》て、如何《いか》に長足《ちやうそく》の進歩《しんぽ》を爲《な》したかと云《い》ふ事《こと》を考《かんが》へ初《はじ》める。
『自分《じぶん》が大學《だいがく》にゐた時分《じぶん》は、醫學《いがく》も猶且《やはり》、錬金術《れんきんじゆつ》や、形而上學《けいじゝやうがく》などと同《おな》じ運命《うんめい》に至《いた》るものと思《おも》ふてゐたが、實《じつ》に驚《おどろ》く可《べ》き進歩《しんぽ》である。大革命《だいかくめい》とも名《なづ》けられる位《くらゐ》だ、防腐法《ばうふはふ》の發明《はつめい》によつて、大家《たいか》のピロウゴフさへも、到底《たうてい》出來得《できう》べからざる事《こと》を認《みとめ》てゐた手術《しゆじゆつ》が、容易《たやす》く遣《や》られるやうにはなつた。今《いま》では腹部截開《ふくぶせつかい》の百|度《たび》の中《うち》、死《し》を見《み》ることは一|度位《どぐらゐ》なものである。梅毒《ばいどく》も根治《こんぢ》される、其他《そのた》遺傳論《ゐでんろん》、催眠術《さいみんじゆつ》、パステルや、コツホなどの發見《はつけん》、衞生學《ゑいせいがく》、統計學《とうけいがく》などは奈何《どう》であらう……。』
 我々《われ/\》ロシヤの地方團體《ちはうだんたい》の醫術《いじゆつ》は如何《どう》であらうか、先《ま》づ精神病《せいしんびやう》に就《つ》いて云《い》ふならば、現今《げんこん》の病氣《びやうき》の類別法《るゐべつはふ》、診斷《しんだん》、治療《ちれう》の方法《はうはふ》、共《とも》に皆是《みなこれ》を過去《くわこ》の精神病學《せいしんびやうがく》と比較《ひかく》するならば、其《そ》の差《さ》はエリボルスの山《やま》の如《ごと》き高大《かうだい》なるものである。現今《げんこん》では精神病者《せいしんびやうしや》の治療《ちれう》に冷水《れいすゐ》を注《そゝ》がぬ、蒸暑《むしあつ》きシヤツを被《き》せぬ、而《さう》して人間的《にんげんてき》に彼等《かれら》を取扱《とりあつか》ふ、即《すなは》ち新聞《しんぶん》に記載《きさい》する通《とほ》り、彼等《かれら》の爲《ため》に、演劇《えんげき》、舞踏《ぶたふ》を催《もよほ》す。
 彼《かれ》は又《また》恁《か》く思考《かんが》へた。
 現時《げんじ》の見解《けんかい》及《およ》び趣味《しゆみ》を見《み》るに、六|號室《がうしつ》の如《ごと》きは、誠《まこと》に見《み》るに忍《しの》びざる、厭惡《えんを》に堪《た》へざるものである。恁《かゝ》る病室《びやうしつ》は、鐵道《てつだう》を去《さ》ること、二百|露里《ヴエルスタ》の此《こ》の小都會《せうとくわい》に於《おい》てのみ見《み》るのである。即《すなは》ち此所《こゝ》の市長《しちやう》並《ならび》に町會議員《ちやうくわいぎゐん》は皆《みな》生物知《ゝまものし》りの町人《ちやうにん》である、であるから醫師《いし》を見《み》ることは神官《しんくわん》の如《ごと》く、其《そ》の言《い》ふ所《ところ》を批評《ひゝやう》せずして信《しん》じてゐる。例《たと》へば、溶解《ようかい》せる鉛《なまり》を口《くち》に入《い》るゝとも、少《すこ》しも不思議《ふしぎ》には思《おも》はぬであらう。が、若《も》し是《これ》が他《た》の所《ところ》に於《おい》ては如何《どう》であらうか、公衆《こうしゆう》と、新聞紙《しんぶんし》とは必《かなら》ず此《かく》の如《ごと》き監獄《バステリヤ》は、とうに寸斷《すんだん》にして了《しま》つたであらう。
『然《しか》し其《そ》れが奈何《どう》である。』
と、彼《かれ》はパツと眼《め》を開《ひら》いて自《みづか》ら問《と》ふた。
『防腐法《ばうふはう》だとか、コツホだとか、パステルだとか云《い》つたつて、實際《じつさい》に於《おい》ては世《よ》の中《なか》は少《すこ》しも是迄《これまで》と變《かは》らないでは無《な》いか、病氣《びやうき》の數《すう》も、死亡《しばう》の數《すう》も、瘋癲患者《ふうてんくわんじや》の爲《ため》だと云《い》つて、舞踏會《ぶたふくわい》やら、演藝會《えんげいくわい》やらが催《もよほ》されるが、然《しか》し彼等《かれら》をして全《まつた》く開放《かいはう》することは出來《でき》ないでは無《な》いか。而《し》て見《み》れば、何《なん》でも皆《みな》空《むな》しい事《こと》だ、ヴインナの完全《くわんぜん》な大學病院《だいがくびやうゐん》でも、我々《われ/\》の此《こ》の病院《びやうゐん》と少《すこ》しも差別《さべつ》は無《な》いのだ。
 然《しか》し俺《おれ》は有害《いうがい》な事《こと》に務《つと》めてると云《い》ふものだ、自分《じぶん》の欺《あざむ》いてゐる人間《にんげん》から給料《きふれう》を貪《むさぼ》つてゐる、不正直《ふしやうぢき》だ、然《け》れども俺《おれ》其者《そのもの》は至《いた》つて微々《びゞ》たるもので、社會《しやくわい》の必然《ひつぜん》の惡《あく》の一|分子《ぶんし》に過《す》ぎぬ、總《すべ》て町《まち》や、郡《ぐん》の官吏共《くわんりども》でも皆《みな》詰《つま》り無用《むよう》の長物《ちやうぶつ》だ。唯《た》だ給料《きふれう》を貪《むさぼ》つてゐるに過《す》ぎん……而《さう》して見《み》れば不正直《ふしやうぢき》の罪《つみ》は、敢《あへ》て自分計《じぶんばか》りぢや無《な》い、時勢《じせい》に有《あ》るのだ、もう二百|年《ねん》も晩《おそ》く自分《じぶん》が生《うま》れたなら、全然《まるで》別《べつ》の人間《にんげん》で有《あ》つたかも知《し》れぬ。』
 三|時《じ》が鳴《な》る、彼《かれ》はランプを消《け》して寐室《ねべや》に行《い》つた。が、奈何《どう》しても睡眠《ねむり》に就《つ》くことは出來《でき》ぬのであつた。

       (八)

 二|年《ねん》此方《このかた》、地方自治體《ちはうじちたい》はやう/\饒《ゆたか》になつたので、其管下《そのくわんか》に病院《びやうゐん》の設立《たて》られるまで、年々《ねん/\》三百|圓《ゑん》づつを此《こ》の町立病院《ちやうりつびやうゐん》に補助金《ほじよきん》として出《だ》す事《こと》となり、病院《びやうゐん
前へ 次へ
全20ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
瀬沼 夏葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング