ンドレイ、エヒミチに取《と》つては此《こ》の人間《ひと》計《ばか》りが、町中《まちゞゆう》で一人《ひとり》氣《き》の置《お》けぬ親友《しんいう》なので。ミハイル、アウエリヤヌヰチは元《もと》は富《と》んでゐた大地主《おほぢぬし》、騎兵隊《きへいたい》に屬《ぞく》してゐた者《もの》、然《しか》るに漸々《だん/\》身代《しんだい》を耗《す》つて了《しま》つて、貧乏《びんばふ》し、老年《らうねん》に成《な》つてから、遂《つひ》に此《こ》の郵便局《いうびんきよく》に入《はひ》つたので。至《いた》つて元氣《げんき》な、壯健《さうけん》な、立派《りつぱ》な白《しろ》い頬鬚《ほゝひげ》の、快活《くわいくわつ》な大聲《おほごゑ》の、而《しか》も氣《き》の善《よ》い、感情《かんじやう》の深《ふか》い人間《にんげん》である。然《しか》し又《また》極《ご》く腹立易《はらだちツぽ》い男《をとこ》で、誰《だれ》か郵便局《いうびんきよく》に來《き》た者《もの》で、反對《はんたい》でもするとか、同意《どうい》でも爲《せ》ぬとか、理屈《りくつ》でも並《なら》べやうものなら、眞赤《まつか》になつて、全身《ぜんしん》を顫《ふる》はして怒立《おこりた》ち、雷《らい》のやうな聲《こゑ》で、默《だま》れ! と一|喝《かつ》する。其故《それゆゑ》に郵便局《いうびんきよく》に行《ゆ》くのは怖《こは》いと云《い》ふは一|般《ぱん》の評判《ひやうばん》。が、彼《かれ》は町《まち》の者《もの》を恁《か》く部下《ぶか》のやうに遇《あつか》ふにも拘《かゝは》らず、院長《ゐんちやう》アンドレイ、エヒミチ計《ばか》りは、教育《けういく》があり、且《か》つ高尚《かうしやう》な心《こゝろ》を有《も》つてゐると、敬《うやま》ひ且《か》つ愛《あい》してゐた。
『やあ、私《わたし》です。』
と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは毎《いつも》のやうに恁《か》う云《い》ひながら、アンドレイ、エヒミチの家《いへ》に入《はひ》つて來《き》た。
二人《ふたり》は書齋《しよさい》の長椅子《ながいす》に腰《こし》を掛《か》けて、暫時《ざんじ》莨《たばこ》を吹《ふ》かしてゐる。
『ダリユシカ、ビールでも欲《ほ》しいな。』
と、アンドレイ、エヒミチは云《い》ふ。
初《はじ》めの壜《びん》は二人共《ふたりとも》無言《むごん》の行《ぎやう》で呑乾《のみほ》して了《しま》ふ。院長《ゐんちやう》は考込《かんがへこ》んでゐる、ミハイル、アウエリヤヌヰチは何《なに》か面白《おもしろ》い話《はなし》を爲《し》やうとして、愉快《ゆくわい》さうになつてゐる。
話《はなし》は毎《いつ》も院長《ゐんちやう》から、初《はじ》まるので。
『何《なん》と殘念《ざんねん》なことぢや無《な》いですかなあ。』
と、アンドレイ、エヒミチは頭《かしら》を振《ふ》りながら、相手《あひて》の眼《め》を見《み》ずに徐々《のろ/\》と話出《はなしだ》す。彼《かれ》は話《はなし》をする時《とき》に人《ひと》の眼《め》を見《み》ぬのが癖《くせ》。
『我々《われ/\》の町《まち》に話《はなし》の面白《おもしろ》い、知識《ちしき》のある人間《にんげん》の皆無《かいむ》なのは、實《じつ》に遺憾《ゐかん》なことぢや有《あ》りませんか。是《これ》は我々《われ/\》に取《と》つて大《おほい》なる不幸《ふかう》です。上流社會《じやうりうしやくわい》でも卑劣《ひれつ》なこと以上《いじやう》には其教育《そのけういく》の程度《ていど》は上《のぼ》らんのですから、全《まつた》く下等社會《かとうしやくわい》と少《すこ》しも異《ことな》らんのです。』
『其《そ》れは眞實《まつたく》です。』と、郵便局長《いうびんきよくちやう》は云《い》ふ。
『君《きみ》も知《し》つてゐられる通《とほ》り。』
と、院長《ゐんちやう》は靜《しづか》な聲《こゑ》で、又《また》話續《はなしつゞ》けるので有《あ》つた。
『此《こ》の世《よ》の中《なか》には人間《にんげん》の知識《ちしき》の高尚《こうしやう》な現象《げんしやう》の外《ほか》には、一《ひとつ》として意味《いみ》のある、興味《きようみ》のあるものは無《な》いのです。人智《じんち》なるものが、動物《どうぶつ》と、人間《にんげん》との間《あひだ》に、大《おほい》なる限界《さかひ》をなして居《を》つて、人間《にんげん》の靈性《れいせい》を示《しめ》し、或《あ》る程度《ていど》まで、實際《じつさい》に無《な》い所《ところ》の不死《ふし》の換《かは》りを爲《な》してゐるのです。是《これ》に由《よ》つて人智《じんち》は、人間《にんげん》の唯一《ゆゐいつ》[#ルビの「ゆゐいつ」は底本では「ゐいつ」]の快樂《くわいらく》の泉《いづみ》となつてゐる。然《しか》るに我々《われ/\》は自分《じぶん》の周圍《まはり》に、些《いさゝか》も知識《ちしき》を見《み》ず、聞《き》かずで、我々《われ/\》は全然《まるで》快樂《くわいらく》を奪《うば》はれてゐるやうなものです。勿論《もちろん》我々《われ/\》には書物《しよもつ》が有《あ》る。然《しか》し是《これ》は活《い》きた話《はなし》とか、交際《かうさい》とかと云《い》ふものとは又《また》別《べつ》で、餘《あま》り適切《てきせつ》な例《れい》では有《あ》りませんが、例《たと》へば書物《しよもつ》はノタで、談話《だんわ》は唱歌《しやうか》でせう。』
『其《そ》れは眞實《まつたく》です。』と、郵便局長《いうびんきよくちやう》は云《い》ふ。
二人《ふたり》は默《だま》る。厨房《くりや》からダリユシカが鈍《にぶ》い浮《う》かぬ顏《かほ》で出《で》て來《き》て、片手《かたて》で頬杖《ほゝづゑ》を爲《し》て、話《はなし》を聞《き》かうと戸口《とぐち》に立留《たちどま》つてゐる。
『あゝ君《きみ》は今《いま》の人間《にんげん》から知識《ちしき》をお望《のぞ》みになるのですか?』
とミハイル、アウエリヤヌヰチは嘆息《たんそく》して云《い》ふた。而《さう》して彼《かれ》は昔《むかし》の生活《せいくわつ》が健全《けんぜん》で、愉快《ゆくわい》で、興味《きようみ》の有《あ》つたこと、其頃《そのころ》の上流社會《じやうりうしやくわい》には知識《ちしき》が有《あ》つたとか、又《また》其社會《そのしやくわい》では廉直《れんちよく》、友誼《いうぎ》を非常《ひじやう》に重《おも》んじてゐたとか、證文《しようもん》なしで錢《ぜに》を貸《か》したとか、貧窮《ひんきゆう》な友人《いうじん》に扶助《たすけ》を與《あた》へぬのを恥《はぢ》としてゐたとか、愉快《ゆくわい》な行軍《かうぐん》や、戰爭《せんさう》などの有《あ》つたこと、面白《おもしろ》い人間《にんげん》、面白《おもしろ》い婦人《ふじん》の有《あ》つたこと、又《また》高加索《カフカズ》と云《い》ふ所《ところ》は實《じつ》に好《い》い土地《とち》で、或《あ》る騎兵大隊長《きへいだいたいちやう》の夫人《ふじん》に變者《かはりもの》があつて、毎《いつ》でも身《み》に士官《しくわん》の服《ふく》を着《つ》けて、夜《よる》になると一人《ひとり》で、カフカズの山中《さんちゆう》を案内者《あんないしや》もなく騎馬《きば》で行《ゆ》く。話《はなし》に聞《き》くと、何《なん》でも韃靼人《だつたんじん》の村《むら》に、其夫人《そのふじん》と、土地《とち》の某公爵《ぼうこうしやく》との間《あひだ》に小説《せうせつ》があつたとの事《こと》だ、とかと。
『へゝえ。』
とダリユシカは感心《かんしん》して聞《き》いてゐる。
『而《さう》して可《よ》く呑《の》み、可《よ》く食《く》つたものだ。又《また》非常《ひじやう》な自由主義《じいうしゆぎ》の人間《にんげん》なども有《あ》つたツけ。』
アンドレイ、エヒミチは聞《き》いてはゐたが、耳《みゝ》にも留《とま》らぬ風《ふう》で、何《なに》かを考《かんが》へながら、ビールをチビリ/\と呑《の》んでゐる。
『私《わたし》は奈何《どう》かすると知識《ちしき》のある秀才《しうさい》と話《はなし》を爲《し》てゐることを夢《ゆめ》に見《み》ることがあります。』
と、院長《ゐんちやう》は突然《だしぬけ》にミハイル、アウエリヤヌヰチの言《ことば》を遮《さへぎ》つて言《い》ふた。
『私《わたし》の父《ちゝ》は私《わたし》に立派《りつぱ》な教育《けういく》を與《あた》へたです、然《しか》し六十|年代《ねんだい》の思想《しさう》の影響《えいきやう》で、私《わたし》を醫者《いしや》として了《しま》つたが、私《わたし》が若《も》し其時《そのとき》に父《ちゝ》の言《い》ふ通《とほ》りにならなかつたなら、今頃《いまごろ》は現代思潮《げんだいしてう》の中心《ちゆうしん》となつてゐたであらうと思《おも》はれます。其時《そのとき》には屹度《きつと》大學《だいがく》の分科《ぶんくわ》の教授《けうじゆ》にでもなつてゐたのでせう。無論《むろん》知識《ちしき》なるものは、永久《えいきう》のものでは無《な》く、變遷《へんせん》して行《ゆ》くものですが、然《しか》し生活《せいくわつ》と云《い》ふものは、忌々《いま/\》しい輪索《わな》です。思想《しさう》の人間《にんげん》が成熟《せいじゆく》の期《き》に達《たつ》して、其思想《そのしさう》が發展《はつてん》される時《とき》になると、其人間《そのにんげん》は自然《しぜん》自分《じぶん》がもう已《すで》に此《こ》の輪索《わな》に掛《かゝ》つてゐる遁《のが》れる路《みち》の無《な》くなつてゐるのを感《かん》じます。實際《じつさい》人間《にんげん》は自分《じぶん》の意旨《いし》に反《はん》して、或《あるひ》は偶然《ぐうぜん》な事《こと》の爲《ため》に、無《む》から生活《せいくわつ》に喚出《よびだ》されたものであるのです……。』
『其《そ》れは眞實《まつたく》です。』
と、ミハイル、アウエリヤヌヰチは云《い》ふ。
アンドレイ、エヒミチは依然《やはり》相手《あひて》の顏《かほ》を見《み》ずに、知識《ちしき》ある者《もの》の話計《はなしばか》りを續《つゞ》ける、ミハイル、アウエリヤヌヰチは注意《ちゆうい》して聽《き》いてゐながら『其《そ》れは眞實《まつたく》です。』と、其《そ》れ計《ばか》りを繰返《くりかへ》してゐた。
『然《しか》し君《きみ》は靈魂《れいこん》の不死《ふし》を信《しん》じなさらんのですか?』
と俄《にはか》にミハイル、アウエリヤヌヰチは問《と》ふ。
『いや、ミハイル、アウエリヤヌヰチ、信《しん》じません、信《しん》じる理由《りいう》が無《な》いのです。』と、院長《ゐんちやう》は云《い》ふ。
『實《じつ》を申《まを》すと私《わたし》も疑《うたが》つてゐるのです。然《しか》し尤《もつと》も、私《わたくし》は或時《あるとき》は死《し》なん者《もの》のやうな感《かんじ》もするですがな。其《そ》れは時時《とき/″\》恁《か》う思《おも》ふ事《こと》があるです。
這麼老朽《こんならうきう》な體《からだ》は死《し》んでも可《い》い時分《じぶん》だ、とさう思《おも》ふと、忽《たちま》ち又《また》何《なん》やら心《こゝろ》の底《そこ》で聲《こゑ》がする、氣遣《きづか》ふな、死《し》ぬ事《こと》は無《な》いと云《い》つて居《ゐ》るやうな。』
九|時《じ》少《すこ》し過《す》ぎ、ミハイル、アウエリヤヌヰチは歸《かへ》らんとて立上《たちあが》り、玄關《げんくわん》で毛皮《けがは》の外套《ぐわいたう》を引掛《ひつか》けながら溜息《ためいき》して云《い》ふた。
『然《しか》し我々《われ/\》は隨分酷《ずゐぶんひど》い田舍《ゐなか》に引込《ひつこ》んだものさ、殘念《ざんねん》なのは、這麼處《こんなところ》で往生《わうじやう》をするのかと思《おも》ふと、あゝ……。』
(七)
親友《しんいう》を送出《おくりだ》して、アンドレイ、エヒミチは又《また》讀書《どくしよ》を初《はじ》めるのであ
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