いたり計《ばか》りしてゐますから、白癡《はくち》だと有仰《おつしや》るのでせう。』
『然《さ》うぢや無《な》いです。貴方《あなた》も愈※[#二の字点、1−2−22]《いよ/\》深《ふか》く考慮《かんがへ》るやうに成《な》つたならば、我々《われ/\》の心《こゝろ》を動《うごか》す所《ところ》の、總《すべ》ての身外《しんぐわい》の些細《さゝい》なる事《こと》は苦《く》にもならぬとお解《わか》りになる時《とき》が有《あ》りませう、人《ひと》は解悟《かいご》に向《むか》はなければなりません。是《これ》が眞實《しんじつ》の幸福《かうふく》です。』
『解悟《かいご》……。』イワン、デミトリチは顏《かほ》を顰《しか》める。『外部《ぐわいぶ》だとか、内部《ないぶ》だとか……。いや私《わたくし》には然云《さうい》ふ事《こと》は少《すこ》しも解《わか》らんです。私《わたくし》の知《し》つてゐる事《こと》は唯《たゞ》是丈《これだけ》です。』と、彼《かれ》は立上《たちあが》り、怒《おこ》つた眼《め》で院長《ゐんちやう》を睨《にら》み付《つ》ける。『私《わたし》の知《し》つてゐるのは、神《かみ》が人《ひと》を熱血《ねつけつ》と、神經《しんけい》とより造《つく》つたと云《い》ふ事丈《ことだけ》です! 又《また》有機的組織《いうきてきそしき》は、若《も》し其《そ》れが生活力《せいくわつりよく》を有《も》つてゐるとすれば、總《すべ》ての刺戟《しげき》に反應《はんおう》を起《おこ》すべきものである。其《そ》れで私《わたくし》は反應《はんおう》してゐます。即《すなはち》疼痛《とうつう》に對《たい》しては、絶叫《ぜつけう》と、涙《なみだ》とを以《もつ》て答《こた》へ、虚僞《きよぎ》に對《たい》しては憤懣《ふんまん》を以《もつ》て、陋劣《ろうれつ》に對《たい》しては厭惡《えんを》の情《じやう》を以《もつ》て答《こた》へてゐるです。私《わたくし》の考《かんがへ》では是《これ》が抑《そも/\》生活《せいくわつ》と名《な》づくべきものだらうと。又《また》有機體《いうきたい》が下等《かとう》に成《な》れば成《な》る丈《だ》け、より少《すくな》く物《もの》を感《かん》ずるので有《あ》らうと、其故《それゆゑ》により弱《よわ》く刺戟《しげき》に答《こた》へるのである。で、高等《かうとう》に成《な》れば隨《したがつ》てより強《つよ》き勢力《せいりよく》を以《もつ》て、實際《じつさい》に反應《はんおう》するのです。貴方《あなた》は醫者《いしや》でおゐでて、如何《どう》して那麼譯《こんなわけ》がお解《わか》りにならんです。苦《くるしみ》を輕《かろ》んずるとか、何《なん》にでも滿足《まんぞく》してゐるとか、甚麼事《どんなこと》にも驚《おどろ》かんと云《い》ふやうになるのには、那《あれ》です、那云《あゝい》ふ状態《ざま》になつて了《しま》はんければ。』と、イワン、デミトリチは隣《となり》の油切《あぶらぎ》つた彼《か》の動物《どうぶつ》を差《さ》してさう云《い》ふた。『或《あるひ》は又《また》苦痛《くつう》を以《もつ》て自分《じぶん》を鍛錬《たんれん》して、其《そ》れに對《たい》しての感覺《かんかく》を恰《まる》で失《うしな》つて了《しま》ふ、言《ことば》を換《か》へて言《い》へば、生活《せいくわつ》を止《や》めて了《しま》ふやうなことに至《いた》らしめなければならぬのです。私《わたくし》は無論《むろん》哲人《てつじん》でも、哲學者《てつがくしや》でも無《な》いのですから。』と、更《さら》に激《げき》して。『ですから、那麼事《こんなこと》に就《つ》いては何《な》にも解《わか》らんのです。議論《ぎろん》する力《ちから》が無《な》いのです。』
『如何《どう》してなか/\、貴方《あなた》は立派《りつぱ》に議論《ぎろん》なさるです。』
『貴方《あなた》が例證《れいしよう》に引《ひ》きなすつたストア派《は》の哲學者等《てつがくしやら》は立派《りつぱ》な人達《ひとたち》です。然《しか》しながら彼等《かれら》の學説《がくせつ》は已《すで》に二千|年以前《ねんいぜん》に廢《すた》れて了《しま》ひました、もう一|歩《ぽ》も進《すゝ》まんのです、是《これ》から先《さき》、又《また》進歩《しんぽ》する事《こと》は無《な》い。如何《いかん》となれば是《これ》は現實的《げんじつてき》でない、活動的《くわつどうてき》で無《な》いからで有《あ》る。恁云《かうい》ふ學説《がくせつ》は、唯《たゞ》種々《しゆ/″\》の學説《がくせつ》を集《あつ》めて研究《けんきう》したり、比較《ひかく》したりして、之《これ》を自分《じぶん》の生涯《しやうがい》の目的《もくてき》としてゐる、極《きは》めて少數《せうすう》の人計《ひとばか》りに行《おこな》はれて、他《た》の多數《たすう》の者《もの》は其《そ》れを了解《れうかい》しなかつたのです。苦痛《くつう》を輕蔑《けいべつ》すると云《い》ふ事《こと》は、多數《たすう》の人《ひと》に取《と》つたならば、即《すなは》ち生活《せいくわつ》其物《そのもの》を輕蔑《けいべつ》すると云《い》ふ事《こと》になる。如何《いかん》となれば、人間《にんげん》全體《ぜんたい》は、餓《うゑ》だとか、寒《さむさ》だとか、凌辱《はづかし》めだとか、損失《そんしつ》だとか、死《し》に對《たい》するハムレツト的《てき》の恐怖《おそれ》などの感覺《かんかく》から成立《なりた》つてゐるのです。此《こ》の感覺《かんかく》の中《うち》に於《おい》て人生《じんせい》全體《ぜんたい》が含《ふく》まつてゐるのです。之《これ》を苦《く》にする事《こと》、惡《にく》む事《こと》は出來《でき》ます。が、之《これ》を輕蔑《けいべつ》する事《こと》は出來《でき》んです。で有《あ》るから、ストア派《は》の哲學者《てつがくしや》は未來《みらい》を有《も》つ事《こと》が出來《でき》んのです。御覽《ごらん》なさい、世界《せかい》の始《はじめ》から、今日《こんにち》に至《いた》るまで、益※[#二の字点、1−2−22]《ます/\》進歩《しんぽ》して行《ゆ》くものは生存競爭《せいぞんきやうさう》、疼痛《とうつう》の感覺《かんかく》、刺戟《しげき》に對《たい》する反應《はんおう》の力《ちから》などでせう。』と、イワン、デミトリチは俄《にはか》に思想《しさう》の聯絡《れんらく》を失《うしな》つて、殘念《ざんねん》さうに額《ひたひ》を擦《こす》つた。
『何《なに》か肝心《かんじん》なことを云《い》はうと思《おも》つて出《で》なくなつた。』
と、彼《かれ》は續《つゞ》ける。『其《そ》れぢや基督《ハリストス》でも例《れい》に引《ひ》きませう、基督《ハリストス》は泣《な》いたり、微笑《びせう》したり、悲《かなし》んだり、怒《おこ》つたり、憂《うれひ》に沈《しづ》んだりして、現實《げんじつ》に對《たい》して反應《はんおう》してゐたのです。彼《かれ》は微笑《びせう》を以《もつ》て苦《くるしみ》に對《むか》はなかつた、死《し》を輕蔑《けいべつ》しませんでした、却《かへ》つて「此《こ》の杯《さかづき》を我《われ》より去《さ》らしめよ」と云《い》ふて、ゲフシマニヤの園《その》で祈祷《きたう》しました。』
 イワン、デミトリチは恁《か》く云《い》つて笑出《わらひだ》しながら坐《すわ》る。
『で假《か》りに人間《にんげん》の滿足《まんぞく》と安心《あんしん》とが、其身外《そのしんぐわい》に在《あ》るに非《あ》らずして、自身《じしん》の内《うち》に在《あ》るとして、又《また》假《か》りに苦痛《くつう》を輕蔑《けいべつ》して、何事《なにごと》にも驚《おどろ》かぬように爲《し》なければならぬとして、見《み》て、第《だい》一|貴方《あなた》自身《じしん》は何《なん》に基《もとづ》いて、這麼《こんな》ことを主張《しゆちやう》なさるのか、貴方《あなた》は一|體《たい》哲人《ワイゼ》ですか、哲學者《てつがくしや》ですか?』
『いや私《わたくし》は哲學者《てつがくしや》でも何《なん》でも無《な》い。が、之《これ》を主張《しゆちやう》するのは、大《おほい》に各人《かくじん》の義務《ぎむ》だらうと思《おも》ふのです、是《これ》は道理《だうり》の有《あ》る事《こと》で。』
『いや私《わたくし》の知《し》らうと思《おも》ふのは、何《なん》の爲《ため》に貴方《あなた》が解悟《かいご》だの、苦痛《くつう》だの、其《そ》れに對《たい》する輕蔑《けいべつ》だの、其他《そのた》の事《こと》に就《つ》いて自《みづか》ら精通家《せいつうか》と認《みと》めてお出《いで》なのですか。貴方《あなた》は何時《いつ》にか苦《くるし》んだ事《こと》でも有《あ》るのですか、苦《くる》しみと云《い》ふ事《こと》の理解《りかい》を有《も》つてお出《い》でゝすか、或《あるひ》は失禮《しつれい》ながら貴方《あなた》はお幼少《ちひさい》時分《じぶん》、打擲《ぶたれ》でもなされましたことがお有《あ》りなのですか?』
『否《いえ》、私《わたくし》の兩親《りやうしん》は、身體上《しんたいじやう》の處刑《しよけい》は非常《ひじやう》に嫌《きら》つて居《ゐ》たのです。』
『私《わたくし》は父《ちゝ》には酷《ひど》く仕置《しおき》をされました。私《わたくし》の父《ちゝ》は極《ご》く苛酷《かこく》な官員《くわんゐん》で有《あ》つたのです。が、貴方《あなた》の事《こと》を申《まを》して見《み》ませうかな。貴方《あなた》は一|生涯《しやうがい》誰《だれ》にも苛責《かしやく》された事《こと》は無《な》く、健康《けんかう》なること牛《うし》の如《ごと》く、嚴父《げんぷ》の保護《ほご》の下《もと》に生長《せいちやう》し、其《そ》れで學問《かくもん》させられ、其《それ》からして割《わり》の好《よ》い役《やく》に取付《とりつ》き、二十|年以上《ねんいじやう》の間《あひだ》も、暖爐《だんろ》も焚《た》いてあり、燈《あかり》も明《あか》るき無料《むれう》の官宅《くわんたく》に、奴婢《ぬひ》をさへ使《つか》つて住《す》んで、其上《そのうへ》、仕事《しごと》は自分《じぶん》の思《おも》ふ儘《まゝ》、仕《し》ても仕《し》ないでも濟《す》んでゐると云《い》ふ位置《ゐち》。で、生來《せいらい》貴方《あなた》は怠惰者《なまけもの》で、嚴格《げんかく》で無《な》い人間《にんげん》、其故《それゆゑ》貴方《あなた》は何《な》んでも自分《じぶん》に面倒《めんだう》でないやう、働《はたら》かなくとも濟《す》むやうと計《ばか》り心掛《こゝろが》けてゐる、事業《じげふ》は代診《だいしん》や、其他《そのた》のやくざもの[#「やくざもの」に傍点]に任《まか》せ切《き》り、而《さう》して自分《じぶん》は暖《あたゝか》い靜《しづか》な處《ところ》に坐《ざ》して、金《かね》を溜《た》め、書物《しよもつ》を讀《よ》み、種々《しゆ/″\》な屁理屈《へりくつ》を考《かんが》へ、又《また》酒《さけ》を(彼《かれ》は院長《ゐんちやう》の赤《あか》い鼻《はな》を見《み》て)呑《の》んだりして、樂隱居《らくいんきよ》のやうな眞似《まね》をしてゐる。一|言《げん》で云《い》へば、貴方《あなた》は生活《せいくわつ》と云《い》ふものを見《み》ないのです、其《そ》れを全《まつた》く知《し》らんのです。而《さう》して實際《じつさい》と云《い》ふ事《こと》を唯《たゞ》理論《りろん》の上《うへ》から計《ばか》り推《お》してゐる。だから苦痛《くつう》を輕蔑《けいべつ》したり、何事《なにごと》にも驚《おどろ》かんなどと云《い》つてゐられる。其《そ》れは甚《はなは》だ單純《たんじゆん》な原因《げんいん》に由《よ》るのです。「空《くう》の空《くう》」だとか、内部《ないぶ》だとか、外部《ぐわいぶ》だとか、苦痛《くつう》や、死《し》に對《たい》する輕蔑《けいべつ》だとか、眞正《しんせい》なる幸福《かうふく》だとか、と那麼言草《こんないひ
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