/\》は自分《じぶん》の周圍《まはり》に、些《いさゝか》も知識《ちしき》を見《み》ず、聞《き》かずで、我々《われ/\》は全然《まるで》快樂《くわいらく》を奪《うば》はれてゐるやうなものです。勿論《もちろん》我々《われ/\》には書物《しよもつ》が有《あ》る。然《しか》し是《これ》は活《い》きた話《はなし》とか、交際《かうさい》とかと云《い》ふものとは又《また》別《べつ》で、餘《あま》り適切《てきせつ》な例《れい》では有《あ》りませんが、例《たと》へば書物《しよもつ》はノタで、談話《だんわ》は唱歌《しやうか》でせう。』
『其《そ》れは眞實《まつたく》です。』と、郵便局長《いうびんきよくちやう》は云《い》ふ。
 二人《ふたり》は默《だま》る。厨房《くりや》からダリユシカが鈍《にぶ》い浮《う》かぬ顏《かほ》で出《で》て來《き》て、片手《かたて》で頬杖《ほゝづゑ》を爲《し》て、話《はなし》を聞《き》かうと戸口《とぐち》に立留《たちどま》つてゐる。
『あゝ君《きみ》は今《いま》の人間《にんげん》から知識《ちしき》をお望《のぞ》みになるのですか?』
とミハイル、アウエリヤヌヰチは嘆息《たんそく》して云《い》ふた。而《さう》して彼《かれ》は昔《むかし》の生活《せいくわつ》が健全《けんぜん》で、愉快《ゆくわい》で、興味《きようみ》の有《あ》つたこと、其頃《そのころ》の上流社會《じやうりうしやくわい》には知識《ちしき》が有《あ》つたとか、又《また》其社會《そのしやくわい》では廉直《れんちよく》、友誼《いうぎ》を非常《ひじやう》に重《おも》んじてゐたとか、證文《しようもん》なしで錢《ぜに》を貸《か》したとか、貧窮《ひんきゆう》な友人《いうじん》に扶助《たすけ》を與《あた》へぬのを恥《はぢ》としてゐたとか、愉快《ゆくわい》な行軍《かうぐん》や、戰爭《せんさう》などの有《あ》つたこと、面白《おもしろ》い人間《にんげん》、面白《おもしろ》い婦人《ふじん》の有《あ》つたこと、又《また》高加索《カフカズ》と云《い》ふ所《ところ》は實《じつ》に好《い》い土地《とち》で、或《あ》る騎兵大隊長《きへいだいたいちやう》の夫人《ふじん》に變者《かはりもの》があつて、毎《いつ》でも身《み》に士官《しくわん》の服《ふく》を着《つ》けて、夜《よる》になると一人《ひとり》で、カフカズの山中《さんちゆう》を案内者《あんないしや》もなく騎馬《きば》で行《ゆ》く。話《はなし》に聞《き》くと、何《なん》でも韃靼人《だつたんじん》の村《むら》に、其夫人《そのふじん》と、土地《とち》の某公爵《ぼうこうしやく》との間《あひだ》に小説《せうせつ》があつたとの事《こと》だ、とかと。
『へゝえ。』
とダリユシカは感心《かんしん》して聞《き》いてゐる。
『而《さう》して可《よ》く呑《の》み、可《よ》く食《く》つたものだ。又《また》非常《ひじやう》な自由主義《じいうしゆぎ》の人間《にんげん》なども有《あ》つたツけ。』
 アンドレイ、エヒミチは聞《き》いてはゐたが、耳《みゝ》にも留《とま》らぬ風《ふう》で、何《なに》かを考《かんが》へながら、ビールをチビリ/\と呑《の》んでゐる。
『私《わたし》は奈何《どう》かすると知識《ちしき》のある秀才《しうさい》と話《はなし》を爲《し》てゐることを夢《ゆめ》に見《み》ることがあります。』
と、院長《ゐんちやう》は突然《だしぬけ》にミハイル、アウエリヤヌヰチの言《ことば》を遮《さへぎ》つて言《い》ふた。
『私《わたし》の父《ちゝ》は私《わたし》に立派《りつぱ》な教育《けういく》を與《あた》へたです、然《しか》し六十|年代《ねんだい》の思想《しさう》の影響《えいきやう》で、私《わたし》を醫者《いしや》として了《しま》つたが、私《わたし》が若《も》し其時《そのとき》に父《ちゝ》の言《い》ふ通《とほ》りにならなかつたなら、今頃《いまごろ》は現代思潮《げんだいしてう》の中心《ちゆうしん》となつてゐたであらうと思《おも》はれます。其時《そのとき》には屹度《きつと》大學《だいがく》の分科《ぶんくわ》の教授《けうじゆ》にでもなつてゐたのでせう。無論《むろん》知識《ちしき》なるものは、永久《えいきう》のものでは無《な》く、變遷《へんせん》して行《ゆ》くものですが、然《しか》し生活《せいくわつ》と云《い》ふものは、忌々《いま/\》しい輪索《わな》です。思想《しさう》の人間《にんげん》が成熟《せいじゆく》の期《き》に達《たつ》して、其思想《そのしさう》が發展《はつてん》される時《とき》になると、其人間《そのにんげん》は自然《しぜん》自分《じぶん》がもう已《すで》に此《こ》の輪索《わな》に掛《かゝ》つてゐる遁《のが》れる路《みち》の無《な》くなつてゐるのを感《かん》じます。實際《じつさ
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