我信念
清澤滿之

−−−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)順從《したが》うて
−−−−

 私は常々信念とか如來とか云ふことを、口にして居ますが、其私の信念とは如何なるものであるか、私の信ずる如來とは如何なるものであるか、今少しく之を開陳しようと思ひます。
 私の信念とは、申す迄もなく、私が如來を信ずる心の有樣を申すのであるが、其に就いて、信ずると云ふことゝ、如來と云ふことゝ、二つの事柄があります。此の二つの事柄は、丸で、別々のことの樣にもありますが、私にありては、さうではなくして、二つの事柄が全く一つのことであります。私の信念とは、どんなことであるか、如來を信ずることである。私の云ふ所の如來とは、どんなものであるか、私の信ずる所の本體である。分けて云へば、能信と所信との別があるとでも申しませうか、即ち、私の能信は信念でありて、私の所信は如來であると申して置きませう。或は之を信ずる機と、信ぜらるゝ法との區別であると申してもよろしい。然し、能所だの、機法だの、と云ふ樣な名目を擔ぎ出すと、却て分ることが分らなくなる恐れがあるから、そんなことは、一切省いて置きます。
 私が信ずるとは、どんなことか、なぜ、そんなことをするのであるか、それにはどんな效能があるか、と云ふ樣な色々の點があります。先づ其效能を第一に申せば、此信ずると云ふことには、私の煩悶苦惱が拂ひ去らるゝ效能がある。或は之を救濟的效能と申しませうか。兎に角、私が種々の刺戟やら事情やらの爲に、煩悶苦惱する場合に、此信念が心に現はれ來る時は、私は忽ちにして安樂と平穩とを得る樣になる。其模樣はどうかと云へば、私の信念が現はれ來る時は、其信念が心一ぱいになりて、他の妄想妄念の立ち場を失はしむることである。如何なる刺戟や事情が侵して來ても、信念が現在して居る時には、其刺戟や事情が、ちつとも煩悶苦惱を惹起することを得ないのである。私の如き感じ易きもの、特に病氣にて感情が過敏になりて居るものは、此信念と云ふものがなかつたならば、非常なる煩悶苦惱を免れぬことゝ思はれる。健康な人にても苦惱の多き人には、是非此信念が必要であると思ふ。私が宗教的にありがたいと申すことがあるが、其は信念の爲に、此の如く現實に煩悶苦惱が拂い去らるゝのよろこびを申すのである。
 第二 なぜ、そんな如來を信ずると云ふ樣なことを、す
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
清沢 満之 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング