るのかと云ふに就いては、前に陳ぶるが如き效能があるから、と云うてもよろしいが、尚ほ其より外の譯合があるのである。效能があるからと云ふのは、既に信じたる後の話である。まだ信ぜざる前には、效能があるかなきかは、分らぬことである。勿論、人の效能があると云ふ言葉を聞いて、信ぜられぬ譯でもないが、人の言葉を聞いただけでは、さうでもあらう位のことが多い。眞に效能があるか無いかと云ふことは、自分に實驗したる上の話である。私が如來を信ずるのは、其效能によりて信ずるのみではない、其外に大なる根據があることである。それはどうかと云ふに、私が如來を信ずるのは、私の智慧の窮極であるのである。人生の事に眞面目でなかりし間は、措いて云はず、少しく眞面目になり來りてからは、どうも人生の意義に就いて研究せずには居られないことになり、其研究が遂に人生の意義は不可解であると云ふ所に到達して茲に如來を信ずると云ふことを惹起したのであります。信念を得るには、強ち此の如き研究を要するわけでないからして、私が此の如き順序を經たのは、偶然のことではないかと云ふ樣な疑もありさうであるが、私の信念は、さうではなく、此順序を經るのが必要であつたのであります。私の信念には、私が一切のことに就いて私の自力の無功なることを信ずると云ふ點があります。此自力の無功なることを信ずるには、私の智慧や思案の有り丈を盡して、其頭の擧げやうのない樣になると云ふことが必要である。此が甚だ骨の折れた仕事でありました。其窮極の達せらるゝ前にも、隨分宗教的信念は、こんなものであると云ふ樣な決着は時々出來ましたが、其が後から後から打ち壞はされて了うたことが幾度もありました。論理や研究で宗教を建立しようと思うて居る間は、此難を免れませぬ。何が善だやら惡だやら、何が眞理だやら非眞理だやら、何が幸福だやら不幸だやら、一つも分るものでない。我には何も分らないとなつた處で、一切の事を擧げて、悉く之を如來に信頼する、と云ふことになつたのが、私の信念の大要點であります。
第三 私の信念は、どんなものであるかと申せば、如來を信ずることである。其如來は私の信ずることの出來る、又信ぜざるを得ざる所の本體である。私の信ずることの出來る如來と云ふのは、私の自力は何等の能力もないもの、自ら獨立する能力のないもの、其無能の私をして私たらしむる能力の根本本體が、即ち如來であ
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