和太郎さんと牛
新美南吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)もの憂《う》い
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)村の一文|商《あきな》いやが、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)結合がある[#「ある」に傍点]
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一
牛ひきの和太郎さんは、たいへんよい牛をもっていると、みんながいっていました。だが、それはよぼよぼの年とった牛で、おしりの肉がこけて落ちて、あばら骨も数えられるほどでした。そして、から車をひいてさえ、じきに舌を出して、苦しそうにいきをするのでした。
「こんな牛の、どこがいいものか、和太はばかだ。こんなにならないまえに、売ってしまって、もっと若い、元気のいいのを買えばよかったんだ」
と、次郎左《じろうざ》ェ門《もん》さんはいうのでした。次郎左ェ門さんは若いころ、東京にいて、新聞の配達夫をしたり、外国人の宣教師の家で下男《げなん》をしたりして、さまざま苦労したすえ、りくつがすきで仕事がきらいになって村にもどったという人でありました。
しかし、次郎左ェ門さんがそういっても、和太郎さんのよぼよぼ牛は、和太郎さんにとってはたいそうよい牛でありました。
どういうわけなのでしょうか。
人間にはだれしもくせがあります。和太郎さんにもひとつ悪いくせがあって、和太郎さんはそれをいわれると、いつもおそれいって頭をかき、ついでに背中《せなか》のかゆいところまでかくのですが、それというのはお酒を飲むことでありました。
村から町へいくとちゅう、道ばたに大きい松が一本あり、そのかげに茶店《ちゃみせ》が一軒ありました。ちょうどうまいぐあいに、松の木が一本と茶店が一軒ならんであるということが、和太郎さんにはよくなかったのです。というのは、松の木というものは牛をつないでおくによいもので、茶店というものはお酒の好きな人が、ちょっと一服するによいものだからです。
そこで和太郎さんは、そこを通りかかると、つい、牛を松につないで、ふらふらと茶店にはいって、ちょっと一服してしまうのでした。
ちょっと一服のつもりで、和太郎さんは茶店にはいるのです。けれど酒を飲んでいるうちに、人間の考えはよくかわってしまうものです。もうちょっと、もうちょっと、と思って、一時間くらいじきすごしてしまいます。するとちょうど日ぐれになりますから、「ま、こうなりゃ月が出るまで待っていよう。暗い道を帰るよりましだから」と、またすわりなおしてしまいます。
ほんとうに、そのうち月が出ます。野原は菜《な》の花のさいているじぶんにしろ、稲の苗のうわったじぶんにしろ、月が出れば、明るくて美しいものです。しかし月が出ても出なくても、もう和太郎さんには、どうでもいいことです。というのは和太郎さんは、そのころまでにひどくよっぱらってしまうので、目などはっきりあけてはいられないからです。
それがしょうこに、和太郎さんは、牛と松の木の、区別がつかないのです。ですから、松の木にまきつけた綱《つな》をさがすつもりで、牛の腹をいつまでもなでまわしたりします。しかたがないので、茶屋のおよしばあさんが、手綱《たづな》をといてやります。そのうえおよしばあさんは、小田原《おだわら》ちょうちんに火をともして、牛車の台のうしろにつるしてやります。なにしろ酒飲みは、平気でひとに世話をさせるものです。
和太郎さんは、およしばあさんに世話をさせるばかりではありません。これから牛のお世話になるのです。二、三町も歩くと、和太郎さんは「夜道はこうも遠いものか」と考えはじめるのです。そして手綱を牛の角《つの》にひっかけておいて、じぶんは車の上にはいあがります。
こうすれば、もう夜道がどんなに遠くても、和太郎さんにはかまわないわけです。ただ、ねむっているあいだに、車からころげ落ちないように、荷をしばりつける綱を輪にして、じぶんのあごにひっかけておくことを忘れてはいけないのです。
目がさめると、和太郎さんは、じぶんの家の庭にきています。牛がちゃんと道を知っていて、家へもどってきてくれるのです。
こんなことはたびたびありました。いっぺんも、牛は道をまちがえて、和太郎さんを海の方へつれていったり、知らない村の方へひいていったことはなかったのです。
だから和太郎さんにとって、この牛はこんなよぼよぼのみすぼらしい牛ではありましたが、たいへん役にたつよい牛でありました。もし、次郎左《じろうざ》ェ門《もん》さんのすすめにしたがって、この牛を売って若い元気な牛とかえたとしたら、こんど和太郎さんがよっぱらうとき、どこで目がさめるかわかったものではありません。十里さきの名古屋《なごや》の街《まち》のまん中で、よいからさめるかもしれません。それともこの半島のはしの、海にのぞんだ崖《がけ》っぷちの上で目がさめ、びっくりするようなことになるかもしれません。なにしろ若い牛は元気がいいので、ひと晩のうちに十里くらいは歩くでしょうから。
「和太郎さんはいい牛を持っている」とみんなはいっていました。「まるで、気がよくきいて親切《しんせつ》なおかみさんのような」といっていました。
二
ところで、和太郎さんのおかみさんのことです。
和太郎さんは、おかみさんについて悲しい思い出がありました。
和太郎さんも、若かったとき、ひとなみにお嫁《よめ》さんをもらいました。
いままで、年とった目っかちのおかあさんとふたりきりの、さびしい生活をしていましたので、若いお嫁さんがくると、和太郎さんの家は、毎日がお祭のように、明るくたのしくなりました。
美しくて、まめまめしく働くお嫁さんなので、和太郎さんも目っかちのおかあさんも、喜んでいました。
けれど、和太郎さんは、ある日、おかしなことに目をつけました。それは、ご飯を家じゅう三人でたべるとき、お嫁さんがいつも、顔を横にむけて壁《かべ》の方を見ていることでありました。
和太郎さんは、十日間それをだまって見ていました。お嫁さんはあいかわらず、壁の方に顔をむけてご飯をたべるのでありました。
とうとう和太郎さんは、がまんができなくなって、ききました。
「おまえは、首をそういうふうに、ねじむけておかないと、ご飯がのどを通っていかないのかや。それとも、うちの壁に、なにかかわったことでもあるのかや」
するとお嫁さんは、なにもこたえないで、箸《はし》を持った手をひざの上においたまま、うつむいてしまいました。
あとでふたりきりになったとき、お嫁さんは小さな声で和太郎さんにつげました。
「わたしは、おかあさんのつぶれたほうの目を見ると、気持ちがわるくなるのです。つぶれて、赤い肉が見えているでしょう。あれを見てはご飯がのどを通らないので、横をむいているのです」
「そうか、だがおかあさんは、遊んでいて目をつぶしたのじゃないぞや。田の草をとっていて、稲の葉先でついたのがもとで、あの目をつぶしたのだぞや」
と、和太郎さんはいいました。
「わたしは、どういうもんか、あのつぶれた目の赤い肉の色を見ると、気持ちがわるくなるのです」
と、お嫁さんはまたいうのでした。
「だが、おかあさんは、稲でついて目をつぶしたのだぞや。そんなにして、わしをそだててくれたのだぞや」
「でも、わたしは、あのつぶれた目を見ていては、ご飯がのどを通りません」
和太郎さんはおかあさんとふたりきりになったとき、おかあさんに話しました。
「おチヨは、おかあさんのつぶれたほうの目を見ていると、気持ちがわるくて、ご飯がのどを通らんそうです」
それを聞くと、年とったおかあさんは、豆をたたくのをやめて、しばらく悲しげな顔をしていました。そしていいました。
「そりゃ、もっともじゃ。こんなかたわを見ていちゃ、若いものには気持ちがよくあるまい。わしはまえから、嫁ごがきたら、おまえたちのじゃまにならぬように、どこかへ奉公に出ようと思っていたのだよ。それじゃ、あしたから桝半《ますはん》さんのところへ奉公にいこう。あそこじゃ飯たきばあさんがほしいそうだから」
つぎの日、年とったおかあさんは、すこしの荷物をふろしき包みにして、日ざかりにこうもりがさをさして家を出ていきました。門先《かどさき》のもえるようにさきさかっているつつじのあいだを通って、いってしまいました。
畑の垣根《かきね》をなおしながら、和太郎さんは、おかあさんを見送っていました。おかあさんが見えなくなると、つつじの赤が、和太郎さんの目にしみました。
和太郎さんはなけてきました。こんな年とったおかあさんを、今また奉公させに、よその家にやってよいものでしょうか。せっせと働いて、苦労をしつづけて、ひとり息子《むすこ》の和太郎さんをそだててくれたおかあさんを。
和太郎さんは縄《なわ》きれを持ったまま、とんでいって、おかあさんの手をつかむと、だまってぐんぐん家へひっぱってきました。
「おい、おい、おチヨ」
と、和太郎さんはよびました。
お嫁さんは台所から、手をふきながら、出てきました。
「おまえは、近いうちにさと[#「さと」に傍点]へいっぺん帰りたい用があるといっていたな」
「はい」
「それじゃ、きょう、いまからいきなさい」
お嫁さんは、じぶんの生まれた家に久しぶりに帰ることができるので、うれしくてたまりませんでした。さっそくよい着物にかえました。
「さとには、たけのこ[#「たけのこ」に傍点]がなかったな。たけのこを持っていきなさい。ふきもたくさん持っていきなさい」
と、和太郎さんはいいました。
お嫁さんはたくさんのおみやげをかかえこんで、戸口を出ていいました。
「それじゃ、いってまいります」
「ああいけや」と和太郎さんはいいました。
「そうして、もう、ここへこなくてもよいぞや」
お嫁さんはびっくりしました。しかしいくらお嫁さんがびっくりしたところで、和太郎さんの心は、もうかわりませんでした。
こうして、和太郎さんはお嫁さんとわかれてしまいました。
そののち、あちこちから、お嫁さんの話はありましたが、和太郎さんはもうもらいませんでした。ときどき、もういっぺんもらってみようか、と思うこともありましたが、壁を見ると、「やっぱり、よそう」と、考えがかわるのでした。
しかし、お嫁さんをもらわない和太郎さんは、ひとつ残念《ざんねん》なことがありました。それは子どもがないということです。
おかあさんは年をとって、だんだん小さくなっていきます。和太郎さんも、今は男ざかりですが、やがておじいさんになってしまうのです。牛もそのうちには、もっとしりがやせ、あばら骨がろくぼく[#「ろくぼく」に傍点]のようにあらわれ、ついには死ぬのです。そうすると、和太郎さんの家はほろびてしまいます。
お嫁さんはいらないが、子どもがほしい、とよく和太郎さんは考えるのでありました。
三
人間はほかの人間からお世話になるとお礼をします。けれど、牛や馬からお世話になったときには、あまりいたしません。お礼をしなくても、牛や馬は、べつだん文句《もんく》をいわないからであります。だが、これは不公平な、いけないやり方である、と和太郎さんは思っていました。なにか、よぼよぼの牛のたいそう喜ぶようなことをして、日ごろお世話になっているお礼にしたいものだ、と考えていました。
すると、そういうよいおりがやってきました。
百姓《ひゃくしょう》ばかりの村には、ほんとうに平和な、金色《こんじき》の夕ぐれをめぐまれることがありますが、それは、そんな春の夕ぐれでありました。出そろって、山羊《やぎ》小屋の窓をかくしている大麦の穂の上に、やわらかに夕日の光が流れておりました。
和太郎さんは、よぼよぼ牛に車をひかせて、町へいくとちゅうでした。
和太郎さんは、いつもきげんがいいのですが、きょうはまたいちだんとはれやかな顔をしていました。酒《さ
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