もいえると思う。小説が口から離れて紙に移ったところから小説の堕落がはじまるのである。それが嘘だというなら、例えば西鶴やトルストイや宇野浩二などのすぐれた小説を読んで見るとよろしい。そこにはあなた方は作家の手からでなく、作家の口から出て来る息吹きのこもった言葉をきくであろう。
童話はもと――それが文学などという立派な名前で呼ばれなかった時分――話であった、物語りであった。文学になってからも物語りであることをやめなかった(アンデルゼンやソログーブのことを憶《おも》い出して下さい)。文芸童話の時代になっても童話は物語りであることをやめてはならなかったのである。ちょうど、人間が様々な時代に様々の帽子をかむって来たのにかかわらず頭そのものは変わらなかったように。このことは、童話の読者が誰であるかを考えて見ればすぐ解る。相手は子供であって文学青年ではない。そこで今日の童話は、物語性を取り戻す事に努力を払わねばならない。大人の文学が物語性を持たないからとて、どうしてそれを真似《まね》る必要があろう。そして、はじめに述べたジャアナリズムの悪い習慣にもかかわらず、童話は本来の物語性を取り戻しうると私
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