最後の胡弓弾き
新美南吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)竹藪《たけやぶ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)毎晩|鼓《つづみ》の音《おと》と

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「仝」の「工」に代えて「吉」、屋号を示す記号、59−12]
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       一 

 旧の正月が近くなると、竹藪《たけやぶ》の多いこの小さな村で、毎晩|鼓《つづみ》の音《おと》と胡弓《こきゅう》のすすりなくような声が聞えた。百姓の中で鼓と胡弓のうまい者が稽古《けいこ》をするのであった。
 そしていよいよ旧正月がやって来ると、その人たちは二人ずつ組になり、一人は鼓を、も一人は胡弓を持って旅に出ていった。上手《じょうず》な人たちは東京や大阪までいって一月《ひとつき》も帰らなかった。また信州《しんしゅう》の寒い山国へ出かけるものもあった。あまり上手でない人や、遠くへいけない人は村からあまり遠くない町へいった。それでも三里はあった。
 町の門《かど》ごとに立って胡弓|弾《ひ》きがひく胡弓にあわせ、鼓を持った太夫《たゆう》さんがぽんぽんと鼓を掌《て》のひらで打ちながら、声はりあげて歌うのである。それは何を謡《うた》っているのやら、わけのわからないような歌で、おしまいに「や、お芽出《めで》とう」といって謡いおさめた。すると大抵《たいてい》の家では一銭銅貨をさし出してくれた。それをうけとるのは胡弓弾きの役目だったので、胡弓弾きがお銭《あし》を頂《いただ》いているあいだだけ胡弓の声はとぎれるのであった。たまには二銭の大きい銅貨をくれる家もあった。そんなときにはいつもより長く歌を謡うのである。
 ことし十二になった木之助は小さい時から胡弓の音が好きであった。あのおどけたような、また悲しいような声をきくと木之助は何ともいえないうっとりした気持ちになるのであった。それで早くから胡弓を覚えたいと思っていたが、父が許してくれなかった。それが今年は十二になったというので許しが出たのであった。木之助はそこで、毎晩胡弓の上手な牛飼《うしかい》の家へ習いに通《かよ》った。まだ電燈がない頃《ころ》なので、牛飼の小さい家には煤《すす》で黒い天井から洋燈《ランプ》が吊《つ》り下《さが》り、その下で木之助は好きな胡弓を牛飼について弾いた。
 旧正月がついにやって来た。木之助は従兄《いとこ》の松次郎と組になって村をでかけた。松次郎は太夫さんなので、背中に旭日《あさひ》と鶴《つる》の絵が大きく画《か》いてある黒い着物をき、小倉《こくら》の袴《はかま》をはき、烏帽子《えぼし》をかむり、手に鼓を持っていた。木之助はよそ行きの晴衣《はれぎ》にやはり袴をはき、腰に握り飯の包みをぶらさげ、胡弓を持っていた。松次郎はもう二度ばかり門附《かどづ》けに行ったことがあるので、一向平気だったが、始めての木之助は恥《はずか》しいような、誇らしいような、心配なような、妙な気持だった。殊《こと》に村を出るまでは、顔を知った人たちにあうたびに、顔がぽっと赧《あか》くなって、いっそ大きい風呂敷《ふろしき》にでも胡弓を包んで来ればよかったと思った。それは父親が大奮発《だいふんぱつ》で買ってくれた上等の胡弓だった。
 二人が村を出て峠道《とうげみち》にさしかかると、うしろから、がらがらと音がして町へ通ってゆく馬車がやって来た。それを見ると松次郎はしめしめ、といった。あいつに乗ってゆこう、といった。
 木之助はお銭《あし》を持っていなかったので、
「おれ、一銭もないもん」というと、
「馬鹿《ばか》だな、ただ乗りするんだ」と言った。
 馬車は輪鉄《わがね》の音をやかましくあたりに響かせながら近附いて来た。いつもの、聾《つんぼ》の爺《じい》さんが馭者台《ぎょしゃだい》にのっていた。それは木之助の村から五里ばかり西の海ばたの町から、木之助の村を通って東の町へ、一日に二度ずつ通う馬車であった。木之助と松次郎は道のぐろにのいて馬車をやりすごした。
 馬車のうしろには、乗客が乗り下《お》りするとき足を掛ける小さい板がついていた。松次郎はそれにうまく跳《と》びついて、うしろ向きに腰をかけた。木之助の場所はもうなかったので木之助は馬車について走らなければならなかった。胡弓を持っているし、坂道なので木之助はふうふう言いながら走ったが、沢山《たくさん》走る必要はなかった。
 馬車は半町《はんちょう》もいかないうちにぴたととまってしまった。松次郎は慌《あわ》てて跳びおりた。ほっぽこ頭巾《ずきん》から眼《め》だけ出した馭者の爺さんが鞭《むち》を持って下りて来た。
「おれ、知らんげや、知らんげや」と松次郎は頭をかかえてわめいた。しかし爺さんは金聾《かなつんぼ》だったので何も聞えなかった。ただ長年の経験で、子供一人でもうしろの板にのるとそれが直《すぐ》体に重く感ぜられるので解《わか》ったのであった。「この馬鹿めが」といって、鞭の柄《え》の方でこつんと軽く松次郎の耳の上を叩《たた》いた。そしてまた馭者台に乗ると馬車を走らせていってしまった。
 松次郎は馬車のうしろに向《むか》って、ペラリと舌を出すと、
「糞爺《くそじじ》いの金聾」と節《ふし》をつけていって、ぽんぽんと鼓をたたいた。そして木之助と一しょに笑い出した。
 二人が三里の道を歩いて町にはいったのは午前十時|頃《ころ》だった。

       二

 町の入口の餅屋《もちや》の門《かど》から始めて、一軒一軒のき伝いに、二人は胡弓をならし、歌を謡《うた》っていった。
 一番始めの餅屋では、木之助はへま[#「へま」に傍点]をしてしまった。胡弓弾きはいきなり胡弓を鳴らしながら賑《にぎ》やかに閾《しきい》をまたいではいってゆかねばならないのだが、木之助は知らずに、
「ごめんやす」と言ってはいっていった。餅屋の婆《ばあ》さんは、それで木之助を餅を買いに来たお客さんと間違えて、
「へえ、おいでやす、何を差しあげますかなも」と答えたのである。木之助は戸惑いして、もぞもぞしていると、場なれた松次郎が、びっくりするほど大きな声で、明けましてお芽出とうといいながら、鼓をぽぽんと二つ続け様にうってその場をとり繕《つくろ》ってくれた。その婆さんは銭箱《ぜにばこ》から一銭銅貨を出してくれた。木之助は胡弓を鳴らすのをやめて、それを受け取り袂《たもと》へ入れた。
 表に出ると松次郎が木之助のことを笑って言った。
「馬鹿だなあ。黙ってはいってきゃええだ」
 それからは木之助はうまくやることが出来た。大抵の家では一銭くれた。五|厘《りん》をくれる人もあった。中には、青く錆《さ》びた穴あき銭を惜しそうにくれる人もあった。二銭銅貨をうけとったときには木之助は、それが馬鹿に重いような気がした。しっかりと掌《て》に握っていて外に出るとそーっと開いて松次郎に見せた。二人は顔を見合わせほほえんだ。
 もうお午《ひる》を少しすぎた。木之助の袂はずしんずしんと横腹にぶつかるほど重くなった。草鞋《わらじ》ばきの足にはうっすら白い砂埃《すなぼこり》もつもった。朝から大分の道のりを歩いたので腹が空《す》いていたが、弁当《べんとう》を使う場所がなかなか見つからなかった。もう少しゆくと空地《あきち》があったから行こうと松次郎が言うので、ついて行って見るとそこには木の香《か》も新しい立派な家が立っていたりした。
 腹がへっては勝《かち》はとれぬから、もう仕方がない、横丁《よこちょう》にでもはいって家のかげで食べようと話をきめたとき、二人は大きい門構《もんがま》えの家の前を通りかかった。そこには立派な門松《かどまつ》が立ててあり、門の片方の柱には、味噌《みそ》溜《たまり》と大きく書かれた木の札《ふだ》がかかっていた。黒い板塀《いたべい》で囲まれた屋敷は広くて、倉のようなものが三つもあった。
「あ、ここだ、ここは去年五銭くれたぞ」と松次郎がいった。で二人は、そこをもう一軒すましてから弁当をとることにした。
 木之助が先になってはいってゆくと、
「う、う、う……」と低く唸《うな》る声がした。木之助はぎくりとした。犬が大嫌《だいきら》いだったのだ。
「松つあん、さきいってくれや」と松次郎に嘆願すると、
「胡弓がさきにはいってかにゃ、出来んじゃねえか」と答えた。松次郎も怖《こわ》かったのに違いない。
 木之助は虎《とら》の尾でもふむように、びくびくしながら玄関の方へ近づいてゆくと、足はまた自然にとまってしまった。大きな赤犬が、入口の用水桶《ようすいおけ》の下にうずくまってこちらを見ているのだった。
「松つあん、さき行ってや」と木之助は泣きそうになっていった。
「馬鹿、胡弓がさき行くじゃねえか」と松次郎は吐き出すようにいったが、松次郎の眼《め》も恐ろしそうに犬の方を見ていた。
 二人は戻《もど》って行こうかと思った。しかし五銭のことを思うと残念だった。そこで木之助が勇気を出して、一足ふみ出して見た。すると犬は、右にねていたしっぽを左へこてん[#「こてん」に傍点]とかえした。また木之助は動けなくなってしまった。
 五銭は欲《ほ》しかったし、犬は恐ろしかったので、二人は進退に困っていると、うしろから誰かがやって来た。この家の下男《げなん》のような人で法被《はっぴ》をきていた。木之助たちを見ると、
「小さい門附けが来たな、どうしただ、犬が恐《おそ》げえのか」といって人が好《よ》さそうに笑った。犬はその人を見るとむくりと体を起して、尾を三つばかり振った。その男の人は犬の頭をなでながら、
「よしよし、トラ、おうよしよし」と犬にいい、それから木之助たちの方に向いて、
「この犬はおとなしいから大丈夫だ。遠慮せんではいれ、はいれ」とすすめた。
「おっつあん、しっかり掴《つか》んどってな」と松次郎が頼んだ。
「おう、よし」と小父《おじ》さんは答えた。
 トラ――恐ろしい名だな、おとなしい犬だと小父さんはいったが嘘《うそ》だろう、と木之助は思いながら立派な広い入口をはいった。
 正面に衝立《ついたて》が立っていて、その前に三宝《さんぽう》が置いてある、古めかしいきれいな広い玄関だった。胡弓や鼓の音がよく響き、奥へ吸いこまれてゆくようで自分ながら気持ちがよかった。
 この家の主人らしい、頭に白髪《しらが》のまじったやさしそうな男の人が衝立の蔭《かげ》から出て来て、木之助と松次郎を見ると、にこにこと笑いながら、
「ほっ、二人とも子供だな」といった。

       三

 木之助は、子供だから五銭もやる必要がないなどと思われてはいけないと、一層心をこめて胡弓を弾《ひ》いた。
 一曲終ったとき主人は、
「ちょっと休めよ」といった。変に馴《な》れなれしい感じのする人だ。松次郎は去年も来て知っていたが木之助は始めてなので妙な気がした。
 ちょっと休めよなどと友達にでもいうように心安くいってくれたのはこの人だけである。木之助はぼけんとつったっていた。五銭はくれないのか知らん。胡弓が下手《まず》いのかな。
「こっちの子供は去年も来たような気がするが、こっちの(と木之助を見て)小さい方は今年《ことし》はじめてだな」
 木之助は小さく見られるのが癪《しゃく》だったので解《わか》らないようにちょっと背伸びした。
「お前たちは何処《どこ》から来たんだ」
 松次郎が自分たちの村の名を言った。
「そうか、今朝《けさ》たって来たのか」
「ああ」
「昼飯、たべたか」
「まだだ」と松次郎が一人で喋舌《しゃべ》った。「弁当持っとるけんど、食べるとこがねえもん」
「じゃ、ここで食べていけよ、うまいものをやるから」
 松次郎はもぞもぞした。五銭はいつくれるのか知らんと木之助は思った。
 二人がまだどっちとも決めずにいるうちに、主人は一人できめてしまって、じゃちょっと待っておれよ、といって奥へ姿を消した。
 やがて奥から、色の白い、眼の細い、意地《いじ》
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