「ちょっと、すまないが、さっきの胡弓は返してくれんかな。ちょっと、そのう、都合の悪いことが出来たもんで」
 青くむくんだ女主人は、きつい眼をして木之助の顔を穴のあくほど見た。そこで木之助は財布《さいふ》から三十銭を出して火鉢《ひばち》の横にならべた。
「まことに勝手なこといってすまんが、あの胡弓は三十年も使って来たもんで、俺《おれ》のかかあより古くから俺につれそっているんで」
 女主人の心を和《やわら》げようと思って木之助はそんなことをいった。すると女主人は、
「あんたのかかあ[#「かかあ」に傍点]がどうしただか、そんなこたあ知らんが、家《うち》あ商売してるだね。遊んでいるじゃねえよ」といって、帳面や算盤《そろばん》の乗っている机に頤杖《あごづえ》をついた。そしてまたいった。「買いとったものを、おいそれと返すわけにゃいかんよ」
 これはえらい[#「えらい」に傍点]女だなと木之助は思いながら「それじゃ、売ってくれや、いくらでも出すに」といった。
 女主人はまたしばらく木之助の顔を見ていたが、
「売ってくれというなら売らんことはないよ、こっちは買って売るのが商売だあね」とちょっとおとなし
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