のある生物だった。それは耳をそばだてて胡弓の声にきき入り、そののんびり[#「のんびり」に傍点]したような、また物哀《ものがな》しいような音色《ねいろ》を味わっていた。木之助は一心にひいていた。
 門を出ると木之助は、道の向う側からふりかえって見た。再びこの家に訪《たず》ねて来ることはあるまい。長い間木之助の毎日の生活の中で、煩《わずら》わしいことや冗《つま》らぬことの多い生活の中で竜宮城のように楽しい想《おも》いであったこの家もこれからは普通の家になったのである。もはやこの家には木之助の弾く胡弓の、最後の一人の聴手《ききて》がいないのである。
 木之助はすっぽりほっぽこ[#「ほっぽこ」に傍点]頭巾をかむって歩き出した。町の物音や、眼の前を行《ゆ》き交《か》う人々が何だか遠い下の方にあるように思われた。木之助の心だけが、群《むれ》をはなれた孤独な鳥のように、ずんずん高い天へ舞いのぼって行くように感ぜられた。
 ふと木之助は「鉄道省|払下《はらいさ》げ品、電車中遺留品、古物《ふるもの》」と書かれた白い看板に眼をとめた。それは街角《まちかど》の、外《そと》から様々な古物の帽子や煙草《たばこ》
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