奏でる胡弓を、松次郎のたたく鼓を、その合奏を愛している人々が全部なくなったわけではないのだ。尠《すくな》くとも(と木之助はあの金持の味噌屋の主人のことを思った)、あの人は胡弓の音がどんなものかを知っている。
 翌朝木之助は早朝に起き、使いなれた胡弓を持って家を出た。道や枯草、藁積《わらぐま》などには白く霜《しも》が降《お》り、金色にさしてくる太陽の光が、よい一日を約束していたが、二十年も正月といえば欠かさず一緒に出かけた松次郎が、もうついてはいないことは一抹《いちまつ》の寂《さび》しさを木之助の心に曳《ひ》いた。
「木之さん、今年《ことし》も出かけるかな」。木之助が家の前の坂道をのぼって、広い県道に出たとき、村人の一人がそういって擦《す》れちがった。
「ああ、ちょっと行って来ますだ」と木之助が答えると、
「由《よし》さあも、熊《くま》さあも、金《きん》さあも、鹿《しか》あんも今年はもう行かねえそうだ。力《りき》やんと加平《かへい》が、行こか行くまいかと大分迷っとったがとにかくも一ぺん行って見ようといっとったよ」
 そういって村人は遠ざかっていった。

       五

 村を出はずれ
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