のある生物だった。それは耳をそばだてて胡弓の声にきき入り、そののんびり[#「のんびり」に傍点]したような、また物哀《ものがな》しいような音色《ねいろ》を味わっていた。木之助は一心にひいていた。
門を出ると木之助は、道の向う側からふりかえって見た。再びこの家に訪《たず》ねて来ることはあるまい。長い間木之助の毎日の生活の中で、煩《わずら》わしいことや冗《つま》らぬことの多い生活の中で竜宮城のように楽しい想《おも》いであったこの家もこれからは普通の家になったのである。もはやこの家には木之助の弾く胡弓の、最後の一人の聴手《ききて》がいないのである。
木之助はすっぽりほっぽこ[#「ほっぽこ」に傍点]頭巾をかむって歩き出した。町の物音や、眼の前を行《ゆ》き交《か》う人々が何だか遠い下の方にあるように思われた。木之助の心だけが、群《むれ》をはなれた孤独な鳥のように、ずんずん高い天へ舞いのぼって行くように感ぜられた。
ふと木之助は「鉄道省|払下《はらいさ》げ品、電車中遺留品、古物《ふるもの》」と書かれた白い看板に眼をとめた。それは街角《まちかど》の、外《そと》から様々な古物の帽子や煙草《たばこ》入れなどが見えている小さい店の前に立っていた。木之助は看板から自分の持っている胡弓に眼をうつした。聴く人のなくなった胡弓など持っていて何になろう。
誰かに逆《さから》うように、深くも考えずに木之助はそこの硝子戸《ガラスど》をあけた。
「これいくらで取ってもらえるだね」
青くむく[#「むく」に傍点]んだ顔の女主人が、まず、
「こりゃ一体、何だい。三味線《しゃみせん》じゃない。胡弓か、えらい古い物だな」と男のような口のきき方をして、胡弓をうけとった。そして、あちこち傷《いた》んでいないか見てから、
「こんなものは、買えない」とつき返した。
「買えんということはねえだろうがな」と木之助は気が立っていたので口をとがらせていった。「古物屋が古物を買えんという法はねえだら」
「古物屋だとて、今どき使わんようなものはどうにもならんよ。うちは骨董屋《こっとうや》じゃねえから」
二人はしばらく押問答《おしもんどう》した。女主人は買わぬつもりでもないらしく、
「まあ、そうだな。三十銭でよかったら置いてゆきな」といった。
九
木之助はあまり安い値《ね》をいわれたので腹が立ったが、腹立ちまぎれに、そいじゃ売ろうといってしまった。木之助は外に出ると何だかむしょうに腹が立ったが、その下にうつろな寂《さび》しい穴がぽかんとあいていた。
少しゆくと鉄柵《てっさく》でかこまれた大きい小学校があって、その前に学用品を売る店が道の方を向いていた。末っ子の由太のためにたのまれた王様クレヨンを買った。小僧がそれを包み紙で包むのを待っている間に、木之助の心は後悔の念に噛《か》まれはじめた。胡弓を手ばなした瞬間、心の一隅《いちぐう》に「しまった」という声が起った。それが、今は段々大きくなって来た。
クレヨンの包みを受けとると木之助は慌《あわ》てて、ゴムの長靴《ながぐつ》を鳴らしながら、さっきの古物屋の方へひっかえしていった。あいつを手離してなるものか、あいつは三十年の間私につれそうて来た!
もう胡弓が古帽子や煙草入れなどと一緒に、道からよく見えるところに吊《つる》してあるのが、木之助の眼に入った。まだあってよかったと思った。長い間|逢《あ》わなかった親しい者にひょいと出逢ったように懐《なつか》しい感じがした。
木之助は店にはいって行って、ちょっと躊躇《ためら》いながら、いった。
「ちょっと、すまないが、さっきの胡弓は返してくれんかな。ちょっと、そのう、都合の悪いことが出来たもんで」
青くむくんだ女主人は、きつい眼をして木之助の顔を穴のあくほど見た。そこで木之助は財布《さいふ》から三十銭を出して火鉢《ひばち》の横にならべた。
「まことに勝手なこといってすまんが、あの胡弓は三十年も使って来たもんで、俺《おれ》のかかあより古くから俺につれそっているんで」
女主人の心を和《やわら》げようと思って木之助はそんなことをいった。すると女主人は、
「あんたのかかあ[#「かかあ」に傍点]がどうしただか、そんなこたあ知らんが、家《うち》あ商売してるだね。遊んでいるじゃねえよ」といって、帳面や算盤《そろばん》の乗っている机に頤杖《あごづえ》をついた。そしてまたいった。「買いとったものを、おいそれと返すわけにゃいかんよ」
これはえらい[#「えらい」に傍点]女だなと木之助は思いながら「それじゃ、売ってくれや、いくらでも出すに」といった。
女主人はまたしばらく木之助の顔を見ていたが、
「売ってくれというなら売らんことはないよ、こっちは買って売るのが商売だあね」とちょっとおとなし
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