女の人が引っ込んでいって、低声《こごえ》で何か囁《ささや》きあっているのが、心臓の高鳴りはじめた木之助の神経を刺戟《しげき》した。やがてまた足音がして、こんどは頭をぴかぴかの時分《ときわ》けにし、黒い太い縁《ふち》の眼鏡《めがね》をかけた若主人が現われた。
「ああ、また来ましたね」と木之助を見て若主人はいった。「君、知らなかったのかね、親父《おやじ》は昨年の夏なくなったんだよ」
「へっ」といって木之助はしばらく口がふさがらなかった。立っている自分に、寂しさが足元から上って来るのを、しみじみ感じながら。
「そうでごぜえますか、とうとうなくなられましたか」。やっと気を取り直して木之助はそれだけいった。
木之助はすごすごと踵《くびす》をかえした。閾《しきい》に躓《つまず》いて、も少しで見苦しく這《は》いつくばうところだった。右足の親指を痛めただけで胡弓をぶち折らなかったのはまだしも仕合わせというべきだった。
門を出ると、一人の風呂敷包みを持った五十|位《くらい》の女が、雪駄《せった》の歯につまった雪を、門柱の土台石にぶつけて、はずしていた。木之助を見ると女の人は、おや、と懐《なつか》しそうにいった。木之助は見て、その人がこの家の女中であることを知った。彼女は三十年前、木之助が始めて松次郎と門附けに来たとき、主人にいいつけられて御馳走《ごちそう》のはいった皿《さら》を持って来た、あの意地の汚《きた》なかった女中である。来る年も来る年も木之助は彼女を味噌屋の家で見た。木之助が少年から大人《おとな》へ、大人からやがて老人へと成長し年とっていったように、彼女は見る年ごとに成長し年とっていった。二十五位のとき彼女は一度味噌屋から姿を消し、それから五、六年は見えなかったが、再び味噌屋へ戻って来た時は一度に十も年をとったように老《ふ》けて見えた。その時彼女は五つ位になる女の子を一人つれて来た。木之助は御隠居から、彼女の身の上を少しばかりきかされた事があった。彼女は不仕合わせな女で一度|嫁《とつ》いだが夫に死なれたので、女の子をつれてまた味噌屋へ奉公に戻って来たのだそうである。その時以来彼女はずっとこの家から出ていかなかった。若かった頃は意地が悪くて、木之助を見ると白い眼をして見下したが嫁いだ先で苦労をして戻ってからは、人が変ったように大人《おとな》しくなったのである。
八
「お前さん、しばらく見えなかっただね、一昨年《おととし》の正月も昨年の正月もなくなられた大旦那《おおだんな》が、あれが来ないがどうしたろうと言っておらしたに」
「ああ、去年は大病《おおや》みをやり、一昨年は恰度《ちょうど》旧正月の朝親父が死んだもので、どうしても来られなかっただ。御隠居も夏死なしたそうだな。俺《おれ》あ今きいてびっくりしたところだよ」と木之助はいった。
「そうかね、お前さん知らなかっただね」と年とった女中はいって、それから優しく咎《とが》めるような口調で言葉をついだ。「去年の正月はほんとに大旦那はお前さんのことを言っておらしただに。どうしよっただろう、もう門附けなんかしてもつまらんと思って止《や》めよっただろうか、病気でもしていやがるか、ってそりゃ気にして見えただよ」
木之助は熱いものがこみあげて来るような気がした。「ほうかな、ほうかな」といってきいていた。
年とった女中はそれから、もう一ぺんひっ返して、大旦那の御仏前《ごぶつぜん》で供養《くよう》に胡弓を弾くことをすすめた。「そいでも、若い御主人が嫌《きら》うだろ」と木之助がしりごむと、女中は、「なにが。わたしがいるから大丈夫だよ」と言って木之助をひっぱっていった。
女中は木之助を勝手口の方から案内し、ちょっとそこに待たせておいて奥へ姿を消したが、直《じき》また出て来て、さあおあがりな、と言った。木之助は長靴をぬいで女中のあとに従って仏間《ぶつま》にいった。仏壇は大きい立派なもので、点《とも》された蝋燭《ろうそく》の光に、よく磨《みが》かれた仏具や仏像が金色にぴかぴかと煌《きらめ》いていた。木之助はその前に冷えた膝《ひざ》を揃《そろ》えて坐《すわ》ると、焚《た》かれた香《こう》がしめっぽく匂《にお》った。南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》と唱えて、心から頭をさげた。深い仏壇の奥の方から大旦那がこちらを見ているような気がしたのである。
「そいじゃ、何か一つ、弾いてあげておくれやな」と背後に坐っていた女中がいった。木之助は今までに仏壇に向《むか》って胡弓を弾いたことはなかったので、変なそぐわない気がした。だが思い切って弾き出して見ると、じきそんな気持ちは消えた。いつ弾く時でもそうであるように、木之助はもう胡弓に夢中になってしまった。木之助の前にあるのはもう仏壇というような物ではなかった。耳
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