《かね》の音《おと》が雪の上を明るく聞えて来た。小学校が始まったのだ。
木之助はまた胡弓を持って町へゆきたくなった。こんな風のない空気の清澄《せいちょう》な日は、一層よく胡弓が鳴ることを木之助は思うのであった。そうだ、ゆこう。こけ[#「こけ」に傍点]でも何でもいいのだ、この娑婆に一人でも俺の胡弓を聴いてくれる人があるうちは、やめられるものか。
女房や娘はいろいろ言って木之助をとめようとしたが駄目だった。木之助の心は石のように固かった。
「それじゃお父つあん、町へいったらついでに学用品屋で由太《よした》に王様クレヨンを買って来てやってな。十二色のが欲《ほ》しいとじっと(いつも)言っているに」と女房はあきらめていった。「そして早《はよ》う戻って来《こ》にゃあかんに。晩になるときっと冷えるで。味噌屋がすんだらもう他所《よそ》へ寄らんでまっすぐ戻っておいでやな」
女房のいうことは何もかも承知して木之助は出発した。風邪《かぜ》をひかないようにほっぽこ[#「ほっぽこ」に傍点]頭巾《ずきん》をすっぽり被《かぶ》り、足にはゴムの長靴《ながぐつ》を穿《は》いて。何という変てこ[#「てこ」に傍点]な恰好《かっこう》の芸人だろう。だが木之助には恰好などはどうでもよかった。久しぶりに胡弓を弾きに出られることが非常なよろこびだったのだ。
正月といっても村から町へゆく者はあまりなかった。道に積った雪の上の足跡《あしあと》でそれがわかる。二人の人間の足跡、自転車の輪のあとが二本、それに自動車の太いタイヤの跡が道の両側についていた。五、六年前から、馬車の代りに走るようになった乗合自動車《のりあいじどうしゃ》が朝早く通ったのである。
陽《ひ》が生き物のように照っていた。道のわきの田んぼに烏《からす》が二羽おりているのが、白い雪の上にくっきり浮かんで見えた。静かだなあと思って木之助はとっとと歩いた。
七
町にはいった。
木之助は一軒ずつ軒づたいに門附《かどづ》けをするようなことはやめた。自分の記憶をさぐって見て、いつも彼の胡弓をきいてくれた家だけを拾って行った。それも沢山《たくさん》はなく、味噌屋をいれて僅《わず》か五、六軒だったにすぎない。
だがそれらの家々を廻《まわ》りはじめて四軒目に木之助は深く心の内に失望しなければならなかった。どの家も、申しあわせたように木之助の門附けを辞《ことわ》った。帽子屋では木之助が硝子戸《ガラスど》を三寸ばかり明けたとき、店の火鉢《ひばち》に顎《あご》をのせるようにして坐《すわ》っていた年寄りの主人が痩《や》せた大きな手を横に振ったので木之助は三寸あけただけでまた硝子戸をしめねばならなかった。また一昨々年まで必ず木之助の門附けを辞らなかった或《あ》るしもた[#「しもた」に傍点]家《や》には、木之助があけようとして手をかけた入口の格子《こうし》硝子に「諸芸人、物貰《ものもら》い、押売り、強請《ゆすり》、一切おことわり、警察電話一五〇番」と書いた判紙《はんし》が貼《は》ってあった。また或る店屋では、木之助が中にはいって、ちょっと胡弓を弾いた瞬間、声の大きい旦那《だんな》が、今日はごめんだ、と怒鳴りつけるような声で言ったので、木之助はびくっとして手をとめた。胡弓の音《おと》もびっくりしたようにとまってしまった。
もうこれ以上他を廻るのは無駄《むだ》であると木之助は思った。そこで最後のたのしみにとっておいた味噌屋の方へ足を向けた。
門の前に立った時木之助はおやと思った。そこには見馴《みな》れた古い「味噌《みそ》溜《たまり》」の板看板はなくなり、代りに、まだ新しい杉板に「※[#「仝」の「工」に代えて「吉」、屋号を示す記号、59−12]味噌|醤油《しょうゆ》製造販売店」と書いたのが掲げられてあった。それだけのことで、木之助にはいつもと様子が変ったような、うとましい気がした。門をくぐってゆくと、あの大きい天水桶《てんすいおけ》はなくなっていた。そして天水桶のあったあたりには、木之助の嫌《きら》いな、オート三輪がとめてあった。
「ごめんやす」とほっぽこ[#「ほっぽこ」に傍点]頭巾をぬいで木之助は土間《どま》にはいった。
奥の方で、誰か来たよといっているのが静けさの中をつつぬけて来た。やがて誰かが立ってこちらへ来る気配がした。木之助はちょっと身繕《みづくろ》いした。だが衝立《ついたて》の蔭《かげ》から、始めて見る若い美しい女の人が出て来て、そこに片手をついてこごんだときはまた面くらった。
「あのう」といって木之助は黙った。言葉がつづかなかった。それから一つ咳《せき》をして「ご隠居は今日はお留守《るす》でごぜえますか。毎年ごひいきに預っています胡弓弾きが参りましたと仰有《おっしゃ》って下せえまし」といった。
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