う言っては、壁にかかっている胡弓の方を見たのである。
 木之助の病気は癒《なお》った。が以前のような曇りのない健康は帰って来なかった。以前は持つことの出来た米俵がもう木之助の腕ではあがって来なかった。また子供のときから耕していた田圃《たんぼ》の一畝《ひとうね》が、以前よりずっと長くなったように感ぜられ、何度も腰をのばし、あおっている心臓のしずまるのを待たねばならなかった。冬がやって来たとき、死んだ父親を苦しめていたあの喘息《ぜんそく》が木之助にもおとずれて来た。寒い夜は遅くまで咳がとまらなかった。
 しかし今年の正月にはどうあっても胡弓弾きにゆくと、一月《ひとつき》も前から木之助は気張《きば》っていた。味噌屋の御主人にすまんからといった。そして体の調子のよい折を見ては、夜、妻と三番目の娘が、嫁入《よめい》りの仕度《したく》に着物を縫っている傍《かたわら》で胡弓を奏でた。昼間、藁部屋《わらべや》の陽南《ひなた》で猫《ねこ》といっしょに陽《ひ》にぬくとまりながら、鳴らしているときは、木之さんも年を喰ったと村人が見て通った。
 正月の前の晩はひどい寒気だった。その日は朝から雪が降りづめで、夜になって漸《ようや》くやんだ。夜はまた木之助の咽喉《のど》がむずがゆくなり咳が出て来た。裏の竹藪《たけやぶ》で、竹から雪がどさっどさっと落ちる音が、木之助の咳にまじった。咳の長いつづきがやむと娘が、
「お父《とっ》つあん、そんなふうで明日《あした》門附けにゆけるもんかい」といった。もう昼間から何度も繰り返している言葉である。
「行けんじゃい!」と木之助は癇癪《かんしゃく》を起して呶鳴《どな》るようにいった。「おツタのいう通りだ」と女房もいった。

       六

「無理して行って来て、また寝こむようなことになると、僅《わず》かな銭金《ぜにかね》にゃ代らないよ」。そして女房は、去年木之助が感冒を患ったとき、町から三度自動車で往診に来たお医者に、鶏《とり》ならこれから卵を産もうという一番|値《ね》のする牝鶏《めんどり》を十羽買えるだけのお銭《あし》を払わねばならなかったことをいった。
「明日《あした》は、ええ日になるだ」。木之助はあれ以来女房や娘に苦労をかけているのを心の中では済まなく思って、それでも負け惜しみをいった。「雪の明けの日というものは、ぬくといええ日になるもんだよ」
「雪が解けて歩くに難儀だよ」と女房がいった。「そげに難儀して行ったところで、今時《いまどき》、胡弓など本気になって聴いてくれるものはありゃしないだよ」
 木之助は、女房のいう通りだと悲しく思った。だが、味噌屋の旦那《だんな》のことを頭にうかべて、
「まだ耳のある人はあるだ。世間は広いだよ」
と答えた。娘のおツタは待針《まちばり》でついた指の背を口にふくみながら、勝つあんもやめた、力さんもやめたと、門附けをやめてしまった人々の名をあげてしまいに「いつまででも芸だの胡弓だのいってるのはお父《とっ》つあん一人だよ。人が馬鹿だというよ」といった。
「こけ[#「こけ」に傍点]でもこけずき[#「こけずき」に傍点]でもええだ。聴いてくれる人が一人でもこの娑婆《しゃば》にあるうちは、俺《おれ》あ胡弓はやめられんよ」
 しばらくみんな黙っていた。竹藪でどさっと雪が落ちた。
「お父つあんも気の毒な人だよ」と女房がしんみりいった。
「もうちっと早くうまれて来るとよかっただ、お父つあん。そうすりゃ世間の人はみんな聴いてくれただよ。今じゃラジオちゅうもんがあるから駄目《だめ》さ」
 木之助は話しているうちに段々あきらめていった。本当に女房や娘のいう通りだろう。世間が聴いてくれなくなった胡弓を弾きに雪の道を町まで行くなどはこけ[#「こけ」に傍点]の骨頂《こっちょう》だろう。それでまた感冒にでもなって、女房たちにこの上の苦労をかけることになったらどんなにつまらないだろう。眠りにつく前、木之助はもう、明日《あした》町へゆくことをすっかり諦《あきら》めていた。
 夜《よ》が明けて旧正月がやって来たが、木之助にとってはそれは奇妙な正月だった。三十年来正月といえば胡弓を抱《かか》えて町へ行った。去年と一昨年《おととし》はいかなかったが、父親の死と、木之助の病気というものが余儀なくさせたのである。ところがこんどはこれという理由もないのだ。第一|今日《きょう》一日何をしたらいいのだろう。
 天気は大層よかった。雪の上にかっと陽《ひ》がさして眩《まぶ》しかった。電線にとまった雀《すずめ》が、その細い線の上に積っていた雪を落すと、雪はきらきら光る粉《こ》になって下の雪に落ちた。外の明るい反射が家の中までさしていた。木之助は胡弓を見ていた。それから柱時計《はしらどけい》を見た。午前九時十五分前。遠くからカンカンカンと鐘
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