しまい、代りにさっきの優しい主人があらわれた。
「どうだうまいか」といって、主人はそこにかがんだ。松次郎が胸に閊《つか》えたので拳《こぶし》でたたいていると、おやあいつ、お茶を持って来なかったんだな、いいつけといたのに、と呟《つぶや》いた。そのとき今の女中がお茶を持って来て、すました顔でそこへ置くとまたひっこんで行った。
「大きな握飯だな、いくつ持って来たんだ」と主人は一つ残った木之助のおむすびを見ていった。六つと木之助は答えた。この半白の頭をした男の人は、さっきより一層|親《したし》くなったように木之助には感じられた。
木之助たちが喰《た》べ終って、「ご馳走《ちそう》さん」と頭をさげると、主人はなおも、いろんなことを二人に話しかけ、訊《たず》ねた。これから行く先だとか、家の職業だとか、大きくなったら何になるのだとか。木之助の胡弓は大層うまいとほめてくれた。木之助はうれしかった。「こんど来るときはもっと仰山《ぎょうさん》弾けるようにして来て、いろんな曲をきかしてくれや」といったので木之助は「ああ」といった。すると主人は袂《たもと》の底をがさごそと探《さが》していて紙の撚《ひね》ったのを二つ取り出し、一つずつ二人にくれた。
二人は門の外に出るとすぐ紙を開いて見た。十銭玉が一つずつあらわれた。
四
木之助は、来る正月来る正月に胡弓をひきに町へいった。行けば必ずあの「味噌《みそ》溜《たまり》」と大きな板の看板のさがっている門をくぐった。主人はいつも変らず木之助を歓迎してくれ、御馳走をしてくれた。
木之助は胡弓がしんから好きだったので、だんだんうまくなっていった。始めは牛飼から曲を教わったが、牛飼の知っている五つの曲はじき覚えてしまい、しかも木之助の方が上手《じょうず》にひけるようになった。するともう牛飼の家に習いにゆくのはやめて、別な曲を知っている人のところへ覚えにいった。隣の村、二つ三つ向うの村にでも、胡弓のうまい人があるということをきくと、昼間の仕事を早くしまって、その村まで出かけてゆき、熱心に頼んで新しい曲を覚えて来た。やがて木之助にも妻が出来、子供も出来たが、夜、木之助の弾《ひ》きならす胡弓の音が邪魔になって子供が寝つかないというときには、村の南の松林にはいっていって、明るい月の光で弾いた。そののんびり[#「のんびり」に傍点]した音色《ねいろ》は、何事かを一生懸命に物語っているように村人たちには聞えたのである。
だが歳月は流れた。或《あ》る年の旧正月が来たとき、こんども松次郎と一しょに門附けにいこうと思った木之助が、前の晩松次郎の家にゆくと風呂《ふろ》にはいっていた松次郎はこういった。「もうこの頃《ころ》じゃ、門附けは流行《はや》らんでな。ことしあもう止《や》めよかと思うだ。五、六年前まであ、東京へ行った連中も旅費の外《ほか》に小金を残して戻って来たが、去年あたりは、何だというじゃないか、旅費が出なかったてよ」
「でも折角《せっかく》覚えた芸だで腐らせることもないよ、松つあん」と木之助は励ますようにいった。「東京は別だよ、場所(都会)の人間はあかんさ」
「だが、俺《おれ》たちも一昨年《おととし》、去年は駄目《だめ》だったじゃねえか。一日、足を棒にして歩いても一両なかっただもんな。乞食《こじき》でも知れてるよ」
なおも木之助がすすめると、風呂の下を焚《た》いていた松次郎のお内儀《かみ》さんがいった。「木之さん、あんたは大人《おとな》しいから、たとい五十銭でも貰《もら》えば貰っただけ家へ持って来るからええけど、うちの人は呑《の》ん兵衛《べえ》で、貰ったのはみんな飲んでしまい、まだ足らんで、持っていった銭《ぜに》まで遣《つか》ってくるから困るよ。それで今年はもう止《や》めておくれやとわたしから頼んでいるだよ」
一昨年の正月も去年の正月も、一日門附けしたあとで松次郎が、酒のきらいな木之助を居酒屋《いざかや》へつれこみ、自分一人で飲んで、ついにはぐでんぐでんに酔ってしまい、三里の夜道を木之助が抱くようにして帰って来たのを木之助は思い出した。
「一人じゃ行けんしなあ」と木之助が思案《しあん》しながらいうと、松次郎が風呂から出て、「うん。俺も子供の時分から旧正月といえば、門附けにいっとったで、今更やめたかないが、女房めがああいうし、実は、こないだ子供めが火箸《ひばし》で鼓を叩いているうち破ってしまっただよ。行くとなりゃ、あれも張りかえなきゃならぬしな」といった。
木之助は仕方がないので一人でゆくことにきめた。自分の身についた芸を、松次郎のように生かそうとしないことは木之助には解らなかった。何故《なぜ》そんなことが平気で出来るのか考えて見ても解らなかった。いかにも年々門附けはすたれて来ている。しかし木之助の
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