ゆきませんでした。
 さて文六ちゃんは、ひとりで、月にあかるい谷地へおりてゆく細道をくだりはじめました。どこかで、蛙《かえる》がくくみ声で鳴いていました。
 文六ちゃんは、ここから、じぶんの家までは、もうじきだから、誰も送ってくれなくても、困るわけではないのです。だが、いつもは送ってくれたのです、今夜にかぎっておくってくれないのです。
 文六ちゃんは、ぼけんとしているようでも、もうちゃんと知っているのです、みんなが、じぶんの下駄のことで何といいかわしたか、また、じぶんが咳《せき》をしたためにどういうことになったかを。
 祭にゆくまでは、あんなに、じぶんに親切にしてくれたみんなが、じぶんが、夜新しい下駄をはいて狐にとりつかれたかしれないために、もう誰一人かえりみてくれない、それが文六ちゃんにはなさけないのでした。
 義則君なんか文六ちゃんより四年級も上だけれど親切な子で、いつもなら、文六ちゃんが寒そうにしていると、洋服の上に着ている羽織《はおり》をぬいでかしてくれたものでした(田舎《いなか》の少年は寒い時、洋服の上に羽織を着ています)。それだのに、今夜は、文六ちゃんが、いくら咳をしていても羽織を貸してやろうとはいいませんでした。
 文六ちゃんの屋敷の外囲いになっている槙《まき》の生垣《いけがき》のところに来ました。背《せ》戸口《どぐち》の方の小さい木戸をあけて中にはいりながら、文六ちゃんは、じぶんの小さい影法師《かげぼうし》を見てふと、ある心配を感じました。
 ――ひょっとすると、じぶんはほんとうに狐につかれているかもしれない、ということでした。そうすると、お父さんやお母さんはじぶんをどうするだろうということでした。

       六

 お父さんが樽屋さんの組合へいつて、今晩はまだ帰らないので、文六ちゃんとお母さんはさきに寝《やす》むことになりました。
 文六ちゃんは初等科三年生なのにまだお母さんといっしょに寝るのです。ひとり子ですからしかたないのです。
「さあ、お祭の話を、母ちゃんにきかしておくれ」
とお母さんは、文六ちゃんのねまきのえりを合わせてやりながらいいました。
 文六ちゃんは、学校から帰れば学校のことを、町にゆけば町のことを、映画を見てくれば映画のことをお母さんにきかれるのです。文六ちゃんは話が下手《へた》ですから、ちぎれちぎれに話をします。それでもお母さんは、とても面白がって、よろこんで文六ちゃんの話をきいてくれるのでした。
「神子《みこ》さんね、あれよく見たら、お多福湯のトネ子だったよ」
と文六ちゃんは話しました。
 お母さんは、そうかい、といって、面白そうに笑って、
「それから、もう誰が出たかわからなかったかい」
とききました。
 文六ちゃんはおもいだそうとするように、眼を大きく見ひらいて、じっとしていましたが、やがて、祭の話はやめて、こんなことをいいだしました。
「母ちゃん、夜、新しい下駄おろすと、狐につかれる?」
 お母さんは、文六ちゃんが何をいい出したかと思って、しばらく、あっけにとられて文六ちゃんの顔を見ていましたが、今晩、文六ちゃんの身の上に、おおよそどんなことが起ったか、けんとうがつきました。
「誰がそんなことをいった?」
 文六ちゃんはむきになって、じぶんのさきの問いをくりかえしました。
「ほんと?」
「嘘《うそ》だよ、そんなこと。昔の人がそんなことをいっただけだよ」
「嘘だね?」
「嘘だとも」
「きっとだね」
「きっと」
 しばらく文六ちゃんは黙っていました。黙っている間に、大きい眼玉が二度ぐるりぐるりとまわりました。それからいいました。
「もし、ほんとだったらどうする?」
「どうするって、何を?」
とお母さんがききかえしました。
「もし、僕が、ほんとに狐になっちゃったらどうする?」
 お母さんは、しんからおかしいように笑いだしました。
「ね、ね、ね」
と文六ちゃんは、ちょっとてれくさいような顔をして、お母さんの胸を両手でぐんぐん押しました。
「そうさね」と、お母さんはちょっと考えていてからいいました。「そしたら、もう、家におくわけにゃいかないね」
 文六ちゃんは、それをきくと、さびしい顔つきをしました。
「そしたら、どこへゆく?」
「鴉根山《からすねやま》の方にゆけば、今でも狐がいるそうだから、そっちへゆくさ」
「母ちゃんや父ちゃんはどうする?」
 するとお母さんは、大人《おとな》が子供をからかうときにするように、たいへんまじめな顔で、しかつべらしく、
「父ちゃんと母ちゃんは相談をしてね、かあいい文六が、狐になってしまったから、わしたちもこの世に何のたのしみもなくなってしまったで、人間をやめて、狐になることにきめますよ」
「父ちゃんも母ちゃんも狐になる?」
「そう、二人で、明日《あした》の
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