と梟《ふくろう》が鳴《な》いていて、崖《がけ》の上《うえ》の仁左《にざ》エ門《もん》さんの家《いえ》では、念仏講《ねんぶつこう》があるのか、障子《しょうじ》にあかりがさし、木魚《もくぎょ》の音《おと》が、崖《がけ》の下《した》のみちまでこぼれていました。もう夜《よる》でありました。行《い》ってみると、働《はたら》き者《もの》の利助《りすけ》さんは、まだ牛小屋《うしごや》の中《なか》のくらやみで、ごそごそと何《なに》かしていました。
「えらい精《せい》が出《で》るのオ。」
と、海蔵《かいぞう》さんがいいました。
「なに、あれから二へん半田《はんだ》まで通《かよ》ってのオ、ちょっとおくれただてや。」
といいながら、牛《うし》の腹《はら》の下《した》をくぐって利助《りすけ》さんが出《で》て来《き》ました。
二人《ふたり》が縁《えん》ばなに腰《こし》をかけると、海蔵《かいぞう》さんが、
「なに、きょうのしんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]のことだがのオ。」
と、話《はな》しはじめました。
「あの道《みち》ばたに井戸《いど》を一つ掘《ほ》ったら、みんながたすかると思《おも》うがのオ。」
と、海蔵《かいぞう》さんがもちかけました。
「そりゃ、たすかるのオ。」
と、利助《りすけ》さんがうけました。
「牛《うし》が椿《つばき》の葉《は》をくっちまうまで知《し》らんどったのは、清水《しみず》が道《みち》から遠《とお》すぎるからだのオ。」
「そりゃ、そうだのオ。」
「三十|円《えん》ありゃ、あそこに井戸《いど》がひとつ掘《ほ》れるだがのオ。」
「ほオ、三十|円《えん》のオ。」
「ああ、三十|円《えん》ありゃええだげな。」
「三十|円《えん》ありゃのオ。」
こんなふうにいっていても、いっこう利助《りすけ》さんが、こちらの心《こころ》をくみとってくれないので、海蔵《かいぞう》さんは、はっきりいってみました。
「それだけ、利助《りすけ》さ、ふんぱつしてくれないかエ。きけば、お前《まえ》、だいぶ山林《さんりん》でもうかったそうだが。」
利助《りすけ》さんは、いままで調子《ちょうし》よくしゃべっていましたが、きゅうに黙《だま》ってしまいました。そして、じぶんのほっぺたをつねっていました。
「どうだエ、利助《りすけ》さ。」
と、海蔵《かいぞう》さんは、しばらくして答《こた》えをうながしました。
それでも利助《りすけ》さんは、岩《いわ》のように黙《だま》っていました。どうやら、こんな話《はなし》は利助《りすけ》さんには面白《おもしろ》くなさそうでした。
「三十|円《えん》で、できるげながのオ。」
と、また海蔵《かいぞう》さんがいいました。
「その三十|円《えん》をどうしておれが出《だ》すのかエ。おれだけがその水《みず》をのむなら話《はなし》がわかるが、ほかのもんもみんなのむ井戸《いど》に、どうしておれが金《かね》を出《だ》すのか、そこがおれにはよくのみこめんがのオ。」
と、やがて利助《りすけ》さんはいいました。
海蔵《かいぞう》さんは、人々《ひとびと》のためだということを、いろいろと説《と》きましたが、どうしても利助《りすけ》さんには「のみこめ」ませんでした。しまいには利助《りすけ》さんは、もうこんな話《はなし》はいやだというように、
「おかか、めしのしたくしろよ。おれ、腹《はら》がへっとるで。」
と、家《いえ》の中《なか》へむかってどなりました。
海蔵《かいぞう》さんは腰《こし》をあげました。利助《りすけ》さんが、夜《よる》おそくまでせっせと働《はたら》くのは、じぶんだけのためだということがよくわかったのです。
ひとりで夜《よ》みちを歩《ある》きながら、海蔵《かいぞう》さんは思《おも》いました。――こりゃ、ひとにたよっていちゃだめだ、じぶんの力《ちから》でしなけりゃ、と。
三
旅《たび》の人《ひと》や、町《まち》へゆく人《ひと》は、しんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]の下《した》の椿《つばき》の木《き》に、賽銭箱《さいせんばこ》のようなものが吊《つ》るされてあるのを見《み》ました。それには札《ふだ》がついていて、こう書《か》いてありました。
「ここに井戸《いど》を掘《ほ》って旅《たび》の人《ひと》にのんでもらおうと思《おも》います。志《こころざし》のある方《かた》は一|銭《せん》でも五|厘《りん》でも喜捨《きしゃ》して下《くだ》さい。」
これは海蔵《かいぞう》さんのしわざでありました。それがしょうこに、それから五、六|日《にち》のち、海蔵《かいぞう》さんは、椿《つばき》の木《き》に向《む》かいあった崖《がけ》の上《うえ》にはらばいになって、えにしだの下《した》から首《くび》ったまだけ出《だ》し、人々《ひとびと》の喜捨《きしゃ》のしようを見《み》ていました。
やがて半田《はんだ》の町《まち》の方《ほう》からお婆《ばあ》さんがひとり、乳母車《うばぐるま》を押《お》してきました。花《はな》を売《う》って帰《かえ》るところでしょう。お婆《ばあ》さんは箱《はこ》に目《め》をとめて、しばらく札《ふだ》をながめていました。しかし、お婆《ばあ》さんは字《じ》を読《よ》んだのではなかったのです。なぜなら、こんなひとりごとをいいました。
「地蔵《じぞう》さんも何《なに》もないのに、なんでこんなとこに賽銭箱《さいせんばこ》があるのじゃろ。」そしてお婆《ばあ》さんは行《い》ってしまいました。
海蔵《かいぞう》さんは、右手《みぎて》にのせていたあごを、左手《ひだりて》にのせかえました。
こんどは村《むら》の方《ほう》から、しりはしょりした、がにまたのお爺《じい》さんがやって来《き》ました。「庄平《しょうへい》さんのじいさんだ。あの爺《じい》さんは昔《むかし》の人間《にんげん》でも、字《じ》が読《よ》めるはずだ。」と、海蔵《かいぞう》さんはつぶやきました。
お爺《じい》さんは箱《はこ》に眼《め》をとめました。そして「なになに。」といいながら、腰《こし》をのばして札《ふだ》を読《よ》みはじめました。読《よ》んでしまうと、「なアるほど、ふふウん、なアるほど。」と、ひどく感心《かんしん》しました。そして、懐《ふところ》の中《なか》をさぐりだしたので、これは喜捨《きしゃ》してくれるなと思《おも》っていると、とり出《だ》したのは古《ふる》くさい莨入《たばこい》れでした。お爺《じい》さんは椿《つばき》の根元《ねもと》でいっぷくすって行《い》ってしまいました。
海蔵《かいぞう》さんは起《お》きあがって、椿《つばき》の木《き》の方《ほう》へすべりおりました。
箱《はこ》を手《て》にとって、ふってみました。何《なん》の手《て》ごたえもないのでした。
がっかりして海蔵《かいぞう》さんは、ふうッと、といきをもらしました。
「けっきょく、ひとは頼《たよ》りにならんとわかった。いよいよこうなったら、おれひとりの力《ちから》でやりとげるのだ。」
といいながら、海蔵《かいぞう》さんは、しんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]をのぼって行《い》きました。
四
次《つぎ》の日《ひ》、大野《おおの》の町《まち》へ客《きゃく》を送《おく》ってきた海蔵《かいぞう》さんが、村《むら》の茶店《ちゃみせ》にはいっていきました。そこは、村《むら》の人力曳《じんりきひ》きたちが一仕事《ひとしごと》して来《く》ると、次《つぎ》のお客《きゃく》を待《ま》ちながら、憩《やす》んでいる場所《ばしょ》になっていたのでした。その日《ひ》も、海蔵《かいぞう》さんよりさきに三|人《にん》の人力曳《じんりきひ》きが、茶店《ちゃみせ》の中《なか》に憩《やす》んでいました。
店《みせ》にはいって来《き》た海蔵《かいぞう》さんは、いつものように、駄菓子箱《だがしばこ》のならんだ台《だい》のうしろに仰向《あおむ》けに寝《ね》ころがってうっかり油菓子《あぶらがし》をひとつ摘《つま》んでしまいました。人力曳《じんりきひ》きたちは、お客《きゃく》を待《ま》っているあいだ、することがないので、つい、駄菓子箱《だがしばこ》のふたをあけて、油菓子《あぶらがし》や、げんこつや、ぺこしゃんという飴《あめ》や、やきするめや餡《あん》つぼなどをつまむのが癖《くせ》になっていました。海蔵《かいぞう》さんもまたそうでした。
しかし海蔵《かいぞう》さんは、今《いま》、つまんだ油菓子《あぶらがし》をまたもとの箱《はこ》に入《い》れてしまいました。
見《み》ていた仲間《なかま》の源《げん》さんが、
「どうしただや、海蔵《かいぞう》さ。あの油菓子《あぶらがし》は鼠《ねずみ》の小便《しょうべん》でもかかっておるだかや。」
といいました。
海蔵《かいぞう》さんは顔《かお》をあかくしながら、
「ううん、そういうわけじゃねえけれど、きょうはあまり喰《た》べたくないだがや。」
と、答《こた》えました。
「へへエ。いっこう顔色《かおいろ》も悪《わる》くないようだが、それでどこか悪《わる》いだかや。」
と、源《げん》さんがいいました。
しばらくして源《げん》さんは、ガラス壺《つぼ》から金平糖《こんぺいとう》を一掴《ひとつか》みとり出《だ》すと、そのうちの一つをぽオいと上《うえ》に投《な》げあげ、口《くち》でぱくりと受《う》けとめました。そして、
「どうだや、海蔵《かいぞう》さ。これをやらんかや。」
といいました。海蔵《かいぞう》さんは、昨日《きのう》まではよく源《げん》さんと、それ[#「それ」に傍点]をやったものでした。二人《ふたり》で競争《きょうそう》をやって、受《う》けそこなった数《かず》のすくないものが、相手《あいて》に別《べつ》の菓子《かし》を買《か》わせたりしたものでした。そして海蔵《かいぞう》さんは、この芸当《げいとう》ではほかのどの人力曳《じんりきひ》きにも負《ま》けませんでした。
しかし、きょうは海蔵《かいぞう》さんはいいました。
「朝《あさ》から奥歯《おくば》がやめやがってな、甘《あま》いものはたべられんのだてや。」
「そうかや、そいじゃ、由《よし》さ、やろう。」
といって、源《げん》さんは由《よし》さんと、それをはじめました。
二人《ふたり》は色《いろ》とりどりの金平糖《こんぺいとう》を、天井《てんじょう》に向《む》かって投《な》げあげてはそれを口《くち》でとめようとしましたが、うまく口《くち》にはいるときもあれば、鼻《はな》にあたったり、たばこぼんの灰《はい》の中《なか》にはいったりすることもありました。
海蔵《かいぞう》さんは、じぶんがするなら、ひとつもそらしはしないのだがなあ、と思《おも》いながら見《み》ていました。あまり源《げん》さんと由《よし》さんが落《お》としてばかりいると、「よし、おれがひとつやって見《み》せてやろかい。」といって出《で》たくなるのでしたが、それをがまんしていました。これはたいへんつらいことでありました。
はやく、お客《きゃく》がくればいいのになあ、と海蔵《かいぞう》さんは眼《め》をほそめて明《あか》るい道《みち》の方《ほう》を見《み》ていました。しかしお客《きゃく》よりさきに、茶店《ちゃみせ》のおかみさんが、焼《や》きたてのほかほかの大餡巻《おおあんまき》をつくってあらわれました。
人力曳《じんりきひ》きたちは、大《おお》よろこびで、一|本《ぽん》ずつとりました。海蔵《かいぞう》さんもがまんできなくなって、手《て》が少《すこ》しうごきだしましたが、やっとのことでおさえました。
「海蔵《かいぞう》さ、どうしたじゃ。一|銭《せん》もつかわんで、ごっそりためておいて、大《おお》きな倉《くら》でもたてるつもりかや。」
と、源《げん》さんがいいました。
海蔵《かいぞう》さんは苦《くる》しそうに笑《わら》って、外《そと》へ出《で》てゆきました。そして、溝《みぞ》のふちで、かやつり草《ぐさ》を折《お》って、蛙《かえる》をつっていました。
海蔵《かいぞう》さんの胸《むね》
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