の中《うち》には、拳骨《げんこつ》のように固《かた》い決心《けっしん》があったのです。今《いま》までお菓子《かし》につかったお金《かね》を、これからは使《つか》わずにためておいて、しんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]の下《した》に、人々《ひとびと》のための井戸《いど》を掘《ほ》ろうというのでありました。
海蔵《かいぞう》さんは、腹《はら》も歯《は》もいたくありませんでした。のどから手《て》が出《で》るほど、お菓子《かし》はたべたかったのでした。しかし、井戸《いど》をつくるために、今《いま》までの習慣《しゅうかん》をあらためたのでありました。
五
それから二|年《ねん》たちました。
牛《うし》が葉《は》をたべてしまった椿《つばき》にも、花《はな》が三つ四つ咲《さ》いたじぶんの或《あ》る日《ひ》、海蔵《かいぞう》さんは半田《はんだ》の町《まち》に住《す》んでいる地主《じぬし》の家《いえ》へやっていきました。
海蔵《かいぞう》さんは、もう二《ふ》タ月《つき》ほどまえから、たびたびこの家《いえ》へ来《き》たのでした。井戸《いど》を掘《ほ》るお金《かね》はだいたいできたのですが、いざとなって地主《じぬし》が、そこに井戸《いど》を掘《ほ》ることをしょうちしてくれないので、何度《なんど》も頼《たの》みに来《き》たのでした。その地主《じぬし》というのは、牛《うし》を椿《つばき》につないだ利助《りすけ》さんを、さんざん叱《しか》ったあの老人《ろうじん》だったのです。
海蔵《かいぞう》さんが門《もん》をはいったとき、家《いえ》の中《なか》から、ひえっというひどいしゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]の音《おと》がきこえて来《き》ました。
たずねて見《み》ると、一昨日《いっさくじつ》から地主《じぬし》の老人《ろうじん》は、しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]がとまらないので、すっかり体《からだ》がよわって、床《とこ》についているということでした。それで、海蔵《かいぞう》さんはお見舞《みま》いに枕《まくら》もとまできました。
老人《ろうじん》は、ふとんを波《なみ》うたせて、しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]をしていました。そして、海蔵《かいぞう》さんの顔《かお》を見《み》ると、
「いや、何度《なんど》お前《まえ》が頼《たの》みにきても、わしは井戸《いど》を掘《ほ》らせん。しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]がもうあと一|日《にち》つづくと、わしが死《し》ぬそうだが、死《し》んでもそいつは許《ゆる》さぬ。」
と、がんこにいいました。
海蔵《かいぞう》さんは、こんな死《し》にかかった人《ひと》と争《あらそ》ってもしかたがないと思《おも》って、しゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]にきくおまじないは、茶《ちゃ》わんに箸《はし》を一|本《ぽん》のせておいて、ひといきに水《みず》をのんでしまうことだと教《おし》えてやりました。
門《もん》を出《で》ようとすると、老人《ろうじん》の息子《むすこ》さんが、海蔵《かいぞう》さんのあとを追《お》ってきて、
「うちの親父《おやじ》は、がんこでしようがないのですよ。そのうち、私《わたし》の代《だい》になりますから、そしたら私《わたし》があなたの井戸《いど》を掘《ほ》ることを承知《しょうち》してあげましょう。」
といいました。
海蔵《かいぞう》さんは喜《よろこ》びました。あの様子《ようす》では、もうあの老人《ろうじん》は、あと二、三|日《にち》で死《し》ぬに違《ちが》いない。そうすれば、あの息子《むすこ》があとをついで、井戸《いど》を掘《ほ》らせてくれる、これはうまいと思《おも》いました。
その夜《よる》、夕飯《ゆうはん》のとき、海蔵《かいぞう》さんは年《とし》とったお母《かあ》さんに、こう話《はな》しました。
「あのがんこ者《もん》の親父《おやじ》が死《し》ねば、息子《むすこ》が井戸《いど》を掘《ほ》らせてくれるそうだがのオ。だが、ありゃ、もう二、三|日《にち》で死《し》ぬからええて。」
すると、お母《かあ》さんはいいました。
「お前《まえ》は、じぶんの仕事《しごと》のことばかり考《かんが》えていて、悪《わる》い心《こころ》になっただな。人《ひと》の死《し》ぬのを待《ま》ちのぞんでいるのは悪《わる》いことだぞや。」
海蔵《かいぞう》さんは、とむね[#「とむね」に傍点]をつかれたような気《き》がしました。お母《かあ》さんのいうとおりだったのです。
次《つぎ》の朝《あさ》早《はや》く、海蔵《かいぞう》さんは、また地主《じぬし》の家《いえ》へ出《で》かけていきました。門《もん》をはいると、昨日《きのう》より力《ちから》のない、ひきつるようなしゃっくり[#「しゃっくり」に傍点]の声《こえ》が聞《き》こえて来《き》ました。だいぶ地主《じぬし》の体《からだ》が弱《よわ》ったことがわかりました。
「あんたは、また来《き》ましたね。親父《おやじ》はまだ生《い》きていますよ。」
と、出《で》て来《き》た息子《むすこ》さんがいいました。
「いえ、わしは、親父《おやじ》さんが生《い》きておいでのうちに、ぜひおあいしたいので。」
と、海蔵《かいぞう》さんはいいました。
老人《ろうじん》はやつれて寝《ね》ていました。海蔵《かいぞう》さんは枕《まくら》もとに両手《りょうて》をついて、
「わしは、あやまりに参《まい》りました。昨日《きのう》、わしはここから帰《かえ》るとき、息子《むすこ》さんから、あなたが死《し》ねば息子《むすこ》さんが井戸《いど》を許《ゆる》してくれるときいて、悪《わる》い心《こころ》になりました。もうじき、あなたが死《し》ぬからいいなどと、恐《おそ》ろしいことを平気《へいき》で思《おも》っていました。つまり、わしはじぶんの井戸《いど》のことばかり考《かんが》えて、あなたの死《し》ぬことを待《ま》ちねがうというような、鬼《おに》にもひとしい心《こころ》になりました。そこで、わしは、あやまりに参《まい》りました。井戸《いど》のことは、もうお願《ねが》いしません。またどこか、ほかの場所《ばしょ》をさがすとします。ですから、あなたはどうぞ、死《し》なないで下《くだ》さい。」
と、いいました。
老人《ろうじん》は黙《だま》ってきいていました。それから長《なが》いあいだ黙《だま》って海蔵《かいぞう》さんの顔《かお》を見上《みあ》げていました。
「お前《まえ》さんは、感心《かんしん》なおひとじゃ。」
と、老人《ろうじん》はやっと口《くち》を切《き》っていいました。
「お前《まえ》さんは、心《こころ》のええおひとじゃ、わしは長《なが》い生涯《しょうがい》じぶんの慾《よく》ばかりで、ひとのことなどちっとも思《おも》わずに生《い》きて来《き》たが、いまはじめてお前《まえ》さんのりっぱな心《こころ》にうごかされた。お前《まえ》さんのような人《ひと》は、いまどき珍《めずら》しい。それじゃ、あそこへ井戸《いど》を掘《ほ》らしてあげよう。どんな井戸《いど》でも掘《ほ》りなさい。もし掘《ほ》って水《みず》が出《で》なかったら、どこにでもお前《まえ》さんの好《す》きなところに掘《ほ》らしてあげよう。あのへんは、みな、わしの土地《とち》だから。うん、そうして、井戸《いど》を掘《ほ》る費用《ひよう》がたりなかったら、いくらでもわしが出《だ》してあげよう。わしは明日《あした》にも死《し》ぬかも知《し》れんから、このことを遺言《ゆいごん》しておいてあげよう。」
海蔵《かいぞう》さんは、思《おも》いがけない言葉《ことば》をきいて、返事《へんじ》のしようもありませんでした。だが、死《し》ぬまえに、この一人《ひとり》の慾《よく》ばりの老人《ろうじん》が、よい心《こころ》になったのは、海蔵《かいぞう》さんにもうれしいことでありました。
六
しんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]から打《う》ちあげられて、少《すこ》しくもった空《そら》で花火《はなび》がはじけたのは、春《はる》も末《すえ》に近《ちか》いころの昼《ひる》でした。
村《むら》の方《ほう》から行列《ぎょうれつ》が、しんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]を下《お》りて来《き》ました。行列《ぎょうれつ》の先頭《せんとう》には黒《くろ》い服《ふく》、黒《くろ》と黄《き》の帽子《ぼうし》をかむった兵士《へいし》が一人《ひとり》いました。それが海蔵《かいぞう》さんでありました。
しんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]を下《お》りたところに、かたがわには椿《つばき》の木《き》がありました。今花《いまはな》は散《ち》って、浅緑《あさみどり》の柔《やわ》らかい若葉《わかば》になっていました。もういっぽうには、崖《がけ》をすこしえぐりとって、そこに新《あたら》しい井戸《いど》ができていました。
そこまで来《く》ると、行列《ぎょうれつ》がとまってしまいました。先頭《せんとう》の海蔵《かいぞう》さんがとまったからです。学校《がっこう》かえりの小《ちい》さい子供《こども》が二人《ふたり》、井戸《いど》から水《みず》を汲《く》んで、のどをならしながら、美《うつく》しい水《みず》をのんでいました。海蔵《かいぞう》さんは、それをにこにこしながら見《み》ていました。
「おれも、いっぱいのんで行《い》こうか。」
子供《こども》たちがすむと、海蔵《かいぞう》さんはそういって、井戸《いど》のところへ行《い》きました。
中《なか》をのぞくと、新《あたら》しい井戸《いど》に、新《あたら》しい清水《しみず》がゆたかに湧《わ》いていました。ちょうど、そのように、海蔵《かいぞう》さんの心《こころ》の中《なか》にも、よろこびが湧《わ》いていました。
海蔵《かいぞう》さんは、汲《く》んでうまそうにのみました。
「わしはもう、思《おも》いのこすことはないがや。こんな小《ちい》さな仕事《しごと》だが、人《ひと》のためになることを残《のこ》すことができたからのオ。」
と、海蔵《かいぞう》さんは誰《だれ》でも、とっつかまえていいたい気持《きも》ちでした。しかし、そんなことはいわないで、ただにこにこしながら、町《まち》の方《ほう》へ坂《さか》をのぼって行《い》きました。
日本《にっぽん》とロシヤが、海《うみ》の向《む》こうでたたかいをはじめていました。海蔵《かいぞう》さんは海《うみ》をわたって、そのたたかいの中《なか》にはいって行《い》くのでありました。
七
ついに海蔵《かいぞう》さんは、帰《かえ》って来《き》ませんでした。勇《いさ》ましく日露戦争《にちろせんそう》の花《はな》と散《ち》ったのです。しかし、海蔵《かいぞう》さんのしのこした仕事《しごと》は、いまでも生《い》きています。椿《つばき》の木《こ》かげに清水《しみず》はいまもこんこんと湧《わ》き、道《みち》につかれた人々《ひとびと》は、のどをうるおして元気《げんき》をとりもどし、また道《みち》をすすんで行《い》くのであります。
底本:「ごんぎつね・夕鶴」少年少女日本文学館第十五巻、講談社
1986(昭和61)年4月18日第1刷発行
1993(平成5)年2月25日第13刷発行
入力:田浦亜矢子
校正:もりみつじゅんじ
1999年10月25日公開
青空文庫作成ファイル:
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