花をうめる
新美南吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)当時《とうじ》
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 その遊びにどんな名がついているのか知らない。まだそんな遊びをいまの子どもたちがはたしてするのか、町を歩くとき私は注意してみるがこれまでみたためしがない。あのころつまり私たちがその遊びをしていた当時《とうじ》でさえ、他《た》の子どもたちはそういう遊びを知っていたかどうかもあやしい。いちおう私と同年輩《どうねんぱい》の人にたずねてみたいと思う。
 なんだか私たちのあいだにだけあり、後にも先にもないもののような気がする。そう思うことは楽しい。してみると私たちのなかまのたれかが創案《そうあん》したのだが、いったいたれだろう、あんなあわれ深い遊戯《ゆうぎ》をつくり出したのは。
 その遊びというのは、ふたりいればできる。ひとりがかくれんぼのおにのように眼《め》をつむって待っている。そのあいだに他のひとりが道ばたや畑にさいているさまざまな花をむしってくる。そして地べたに茶飲茶碗《ちゃのみちゃわん》ほどの――いやもっと小さい、さかずきほどの穴《あな》をほりその中にとってきた花をいい按配《あんばい》に入れる。それから穴《あな》に硝子《がらす》の破片《はへん》でふたをし、上に砂《すな》をかむせ地面の他の部分とすこしもかわらないようにみせかける。
「ようしか」とおにが催促《さいそく》する、「もうようし」と合図《あいず》する。するとおにが眼《め》をあけてきてそのあたりをきょろきょろとさがしまわり、ここぞと思うところを指先でなでて、花のかくされた穴《あな》をみつけるのである。それだけのことである。
 だがその遊びに私たちが持った興味《きょうみ》は他の遊びとはちがう。おににかくしおおせて、おにを負かしてしまうということや、おにの方では、早くみつけて早くおにをやめるということなどにはたいして興味《きょうみ》はなかった。もっぱら興味《きょうみ》の中心はかくされた土中の一握《ひとにぎり》の花の美しさにつながっていた。
 砂《すな》の上にそっとはわせてゆく指先にこつんとかたいものがあたるとそこに硝子《がらす》がある。硝子《がらす》の上の砂《すな》をのける。だがほんのすこし。ちょうど人さし指の頭のあたる部分だけ。穴《あな》からのぞく。そこには私たちのこのみなれた世界とは全然別の、どこかはるかな
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