くにの、おとぎばなしか夢《ゆめ》のような情趣《じょうしゅ》を持った小さな別天地《べってんち》があった。小さな小さな別天地《べってんち》。ところがみているとただ小さいだけではなかった。無辺際《むへんさい》に大きな世界がそこに凝縮《ぎょうしゅく》されている小ささであった。そのゆえにその指さきの世界は私たちをひきつけてやまなかったのである。
いつもその遊びをしたわけではない。それをするのは夕暮《ゆうぐれ》が多かった。木にのぼったり、草の上をとびまわったり、はげしい肉体的な遊戯《ゆうぎ》につかれてきて、夕まぐれの青やかな空気のなごやかさに私たちの心も何がなしとけこんでゆくころにそれをした。それをする相手も、たれであってもかまわぬというのではなかった。第一そんな遊びを頭からこのまないなかまもあった。女の子はたいていすきだった。
ふたりいればできると私はいったが、ひとりでもできないことはなかった。私はひとりでよくした。ただひとりのときは自分がふたりになってするだけのことである。つまり花をとってかくしておき、そこからすこしはなれたところへできうべくんば家の角を一つまわったところまで、いっておにになり、眼《め》をとじて百か二百かぞえ、それからさがしに出かけるのである。
だがそれをひとりでするときは心に流れるうらわびしさが、硝子《がらす》の指先にふれる冷たさや、土のしめっぽい香《かおり》や、美しい花の色にまでしみて余計《よけい》さびしくなるのだった。
ふたりか三人でその遊びをしたあと、家へ帰る前に美しい作品を一つ土中にうめておきそのまま帰ることもあった。その夜はときどきうめてきた花のことを思い出し床《とこ》の中でも思い出してねむるのである。
そんなとき土中のその小さな花のかたまりは私の心の中のたのしい秘密《ひみつ》であって、母にもたれにも話さない。つぎの朝いってさがしあててみると、花は土のしめりですこしもしおれずしかし明るい朝の光の中ではやや色あせてみえ私はそれと知らず幻滅《げんめつ》を覚えたのであった。また前の晩《ばん》にうめておいた花のことをつぎの朝、子ども心の気まぐれにわすれてしまうこともあった。そういう花が私たちにわすられたままたくさん土にくちてまじったことだろう。
私たちは家に帰る前に、また、そのとき使った花や葉を全部あつめほんとうに土の中に土をもってうめ、上を
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