べえじし》とが、それぞれべつの方《ほう》へ出《で》ていきました。四|人《にん》はうつむきがちに、歩《ある》いていきました。かれらはかしらのことを考《かんが》えていました。よいかしらであったと思《おも》っておりました。よいかしらだから、最後《さいご》にかしらが「盗人《ぬすびと》にはもうけっしてなるな。」といったことばを、守《まも》らなければならないと思《おも》っておりました。
|角兵ヱ《かくべえ》は川《かわ》のふちの草《くさ》の中《なか》から笛《ふえ》を拾《ひろ》ってヒャラヒャラと鳴《な》らしていきました。
四
こうして五|人《にん》の盗人《ぬすびと》は、改心《かいしん》したのでしたが、そのもとになったあの子供《こども》はいったい誰《だれ》だったのでしょう。花《はな》のき村《むら》の人々《ひとびと》は、村《むら》を盗人《ぬすびと》の難《なん》から救《すく》ってくれた、その子供《こども》を探《さが》して見《み》たのですが、けっきょくわからなくて、ついには、こういうことにきまりました、――それは、土橋《どばし》のたもとにむかしからある小《ちい》さい地蔵《じぞう》さんだろう。草鞋《わらじ》をはいていたというのがしょうこである。なぜなら、どういうわけか、この地蔵《じぞう》さんには村人《むらびと》たちがよく草鞋《わらじ》をあげるので、ちょうどその日《ひ》も新《あたら》しい小《ちい》さい草鞋《わらじ》が地蔵《じぞう》さんの足《あし》もとにあげられてあったのである。――というのでした。
地蔵《じぞう》さんが草鞋《わらじ》をはいて歩《ある》いたというのは不思議《ふしぎ》なことですが、世《よ》の中《なか》にはこれくらいの不思議《ふしぎ》はあってもよいと思《おも》われます。それに、これはもうむかしのことなのですから、どうだって、いいわけです。でもこれがもしほんとうだったとすれば、花《はな》のき村《むら》の人々《ひとびと》がみな心《こころ》の善《よ》い人々《ひとびと》だったので、地蔵《じぞう》さんが盗人《ぬすびと》から救《すく》ってくれたのです。そうならば、また、村《むら》というものは、心《こころ》のよい人々《ひとびと》が住《す》まねばならぬということにもなるのであります。
底本:「ごんぎつね・夕鶴 少年少女日本文学館第十五巻」講談社
1986(昭和61)年4月18日第1刷発行
1993(平成5)年2月25日第13刷発行
入力:田浦亜矢子
校正:もりみつじゅんじ
1999年10月25日公開
2006年1月27日修正
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