ごんごろ鐘
新美南吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)八日《ようか》

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(例)三|月《がつ》

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(例)[#「ごオん」に傍点]
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 三|月《がつ》八日《ようか》
 お父《とう》さんが、夕方《ゆうがた》村会《そんかい》からかえって来《き》て、こうおっしゃった。
「ごんごろ鐘《がね》を献納《けんのう》することにきまったよ。」
 お母《かあ》さんはじめ、うちじゅうのものがびっくりした。が、僕《ぼく》はあまり驚《おどろ》かなかった。僕《ぼく》たちの学校《がっこう》の門《もん》や鉄柵《てつさく》も、もうとっくに献納《けんのう》したのだから、尼寺《あまでら》のごんごろ鐘《がね》だって、お国《くに》のために献納《けんのう》したっていいのだと思《おも》っていた。でも小《ちい》さかった時《とき》からあの鐘《かね》に朝晩《あさばん》したしんで来《き》たことを思《おも》えば、ちょっとさびしい気《き》もする。
 お母《かあ》さんが、
「まあ、よく庵主《あんじゅ》さんがご承知《しょうち》なさったね。」
とおっしゃった。
「ん、はじめのうちは、村《むら》の御先祖《ごせんぞ》たちの信仰《しんこう》のこもったものだからとか、ご本山《ほんざん》のお許《ゆる》しがなければとかいって、ぐずついていたけれど、けっきょく気《き》まえよく献納《けんのう》することになったよ。庵主《あんじゅ》だって日本人《にほんじん》に変《か》わりはないわけさ。」
 ところで、このごんごろ鐘《がね》を献納《けんのう》するとなると、僕《ぼく》はだいぶん書《か》きとめておかねばならないことがあるのだ。
 第《だい》一、ごんごろ鐘《がね》という名前《なまえ》の由来《ゆらい》だ。樽屋《たるや》の木之助《きのすけ》爺《じい》さんの話《はなし》では、この鐘《かね》をつくった鐘師《かねし》がひどいぜんそく持《も》ちで、しょっちゅうのどをごろごろいわせていたので、それが鐘《かね》にもうつって、この鐘《かね》を叩《たた》くと、ごオん[#「ごオん」に傍点]のあとに、ごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]という音《おと》がかすかに続《つづ》く、それで誰《だれ》いうとなく、ごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘《がね》と呼《よ》ぶようになったのだそうだ。しかしこの話《はなし》はどうも怪《あや》しい、と僕《ぼく》は思《おも》う。人間《にんげん》のぜんそくが鐘《かね》にうつるというところが変《へん》だ。それなら、人間《にんげん》の腸《ちょう》チブスが鐘《かね》にうつるということもあるはずだし、人間《にんげん》のジフテリヤが鐘《かね》にうつるということもあるはずである。それじゃ鐘《かね》の病院《びょういん》も建《た》たなければならないことになる。
 僕《ぼく》と松男君《まつおくん》はいつだったか、ろんよりしょうこ、ごんごろ鐘《がね》がはたしてごんごろごろ[#「ごんごろごろ」に傍点]と鳴《な》るかどうか試《ため》しにいったことがある。静《しず》かなときを僕《ぼく》たちは選《えら》んでいった。鐘楼《しゅろう》の下《した》にあじさいが咲《さ》きさかっている真昼《まひる》どきだった。松男君《まつおくん》が腕《うで》によりをかけて、あざやかに一つごオん、とついた。そして二人《ふたり》は耳《みみ》をすましてきいていたが、余韻《よいん》がわあんわあんと波《なみ》のようにくりかえしながら消《き》えていったばかりで、ぜんそく持《も》ちの痰《たん》のような音《おと》はぜんぜんしなかった。そこで僕《ぼく》たちは、この鐘《かね》の健康状態《けんこうじょうたい》はすこぶるよろしい、と診断《しんだん》したのだった。
 また紋次郎君《もんじろうくん》とこのお婆《ばあ》さんの話《はなし》によると、この鐘《かね》を鋳《い》た人《ひと》が、三河《みかわ》の国《くに》のごんごろう[#「ごんごろう」に傍点]という鐘師《かねし》だったので、そう呼《よ》ばれるようになったんだそうだ。鐘《かね》のどこかに、その鐘師《かねし》の名《な》が彫《ほ》りつけてあるそうな、と婆《ばあ》さんはいった。これは木之助《きのすけ》爺《じい》さんの話《はなし》よりよほどほんとうらしい。
 しかし僕《ぼく》は、大学《だいがく》にいっている僕《ぼく》の兄《にい》さんの話《はなし》が、いちばん信《しん》じられるのだ。兄《にい》さんはこういった。「それはきっと、ごんごん[#「ごんごん」に傍点]鳴《な》るので、はじめに誰《だれ》かがごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘《がね》といったのさ。ごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘《がね》ごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘《がね》といっているうちに、誰《だれ》かが言《い》いちがえてごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘《がね》といっちまったんだ。するとごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘《がね》の方《ほう》がごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘《がね》よりごろ[#「ごろ」に傍点]がいいので、とうとうごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘《がね》になったのさ。」
 僕《ぼく》は小《ちい》さかったときには、ごんごろ鐘《がね》をずいぶん大《おお》きいものと思《おも》っていた。しかし国民《こくみん》六|年《ねん》にもうじきなろうという現在《げんざい》では、それほど大《おお》きいとは思《おも》わない。直径《ちょっけい》が約《やく》七十|糎《センチ》だから周囲《しゅうい》は[#ここから横組み]70cm×3.14=219.8cm[#ここで横組み終わり]というわけだ。お父《とう》さんが奈良《なら》で見《み》て来《き》た鐘《かね》というのは、直径《ちょっけい》が二|米《メートル》ぐらいあったそうだから、そんなのにくらべれば、ごんごろ鐘《がね》は鐘《かね》の赤《あか》ん坊《ぼう》にすぎない。
 しかし僕《ぼく》たち村《むら》のものにとっては、いつまでも忘《わす》れられない鐘《かね》だ。なぜなら、尼寺《あまでら》の庭《にわ》の鐘楼《しゅろう》の下《した》は、村《むら》のこどものたまりばだからだ。僕《ぼく》たちが学校《がっこう》にあがらないじぶんは、毎日《まいにち》そこで遊《あそ》んだのだ。学校《がっこう》にあがってからでも学校《がっこう》がひけたあとでは、たいていそこにあつまるのだ。夕方《ゆうがた》、庵主《あんじゅ》さんが、もう鐘《かね》をついてもいいとおっしゃるのをまっていて、僕《ぼく》らは撞木《しゅもく》を奪《うば》いあってついたのだ。またごんごろ鐘《がね》は、僕《ぼく》たちの杉《すぎ》の実《み》でっぽうや、草《くさ》の実《み》でっぽうのたまをどれだけうけて、そのたびにかすかな澄《す》んだ音《おと》で僕達《ぼくたち》の耳《みみ》をたのしませてくれたか知《し》れない。
 おもえば、ごんごろ鐘《がね》についてのおもいでは、数《かず》かぎりがない。

 三|月《がつ》二十二|日《にち》
 春休《はるやす》み第《だい》二|日《にち》の今日《きょう》、ごんごろ鐘《がね》がいよいよ「出征《しゅっせい》」することになった。
 兎《うさぎ》にたんぽぽをやっていると、用吉君《ようきちくん》が、今《いま》おろすところだよ、といって来《き》たので、遅《おく》れちゃたいへんと、桑畑《くわばたけ》の中《なか》の近道《ちかみち》を走《はし》っていった。四郎五郎《しろごろう》さんの藪《やぶ》の横《よこ》までかけて来《く》ると、まだ三百|米《メートル》ほど走《はし》ったばかりなのに、あつくなって来《き》たので、上衣《うわぎ》をぬいでしまった。
 尼寺《あまでら》へ来《き》て見《み》て、僕《ぼく》はびっくりした。まるでお祭《まつ》りのときのような人出《ひとで》である。いや、お祭《まつ》りのとき以上《いじょう》かも知《し》れない。お祭《まつ》りには若《わか》い者《もの》や子供《こども》はたくさん出《で》て来《く》るが、こんなに老人《ろうじん》までがおおぜい出《で》て来《き》はしないのだ。杖《つえ》にすがった爺《じい》さん、あごが地《ち》につくくらい背《せ》がまがって、ちょうど七面鳥《しちめんちょう》のようなかっこうの婆《ばあ》さん、自分《じぶん》では歩《ある》かれないので、息子《むすこ》の背《せ》におわれて来《き》た老人《ろうじん》もあった。こういう人《ひと》たちも、みなごんごろ鐘《がね》と、目《め》に見《み》えない糸《いと》で結《むす》ばれているのだ。僕《ぼく》はいまさら、この大《おお》きくもない鐘《かね》が、じつにたくさんの人《ひと》の生活《せいかつ》につながっていることに驚《おどろ》かされた。
 老人《ろうじん》たちは、ごんごろ鐘《がね》に別《わか》れを惜《お》しんでいた。「とうとう、ごんごろ鐘《がね》さま[#「さま」に傍点]も行《い》ってしまうだかや。」といっている爺《じい》さんもあった。なんまみだぶ、なんまみだぶといいながら、ごんごろ鐘《がね》を拝《おが》んでいる婆《ばあ》さんもあった。
 鐘《かね》をおろすまえに、青年団長《せいねんだんちょう》の吉彦《よしひこ》さんが、とてもよいことを思《おも》いついてくれた。長年《ながねん》お友《とも》だちであった鐘《かね》ともいよいよお別《わか》れだから、子供《こども》たちに思《おも》うぞんぶんつかせよう、というのであった。これをきいて僕《ぼく》たち村《むら》の子供《こども》は、わっと歓呼《かんこ》の声《こえ》をあげた。みなつきたいものばかりなので、吉彦《よしひこ》さんはみんなを鐘楼《しゅろう》の下《した》に一|列《れつ》励行《れいこう》させた。そして一人《ひとり》ずつ石段《いしだん》をあがってつくのだが、一人《ひとり》のつく数《かず》は三つにきめられた。お菓子《かし》の配給《はいきゅう》のときのことをおもい出《だ》して、僕《ぼく》はおかしかった。だが、ごんごろ鐘《がね》を最後《さいご》に三つずつ鳴《な》らさせてもらうこの「配給《はいきゅう》」は、お菓子《かし》の配給《はいきゅう》以上《いじょう》にみんなに満足《まんぞく》をあたえた。
 最後《さいご》に吉彦《よしひこ》さんがじぶんで、大《おお》きく大《おお》きく撞木《しゅもく》を振《ふ》って、がオオんん、とついた。わんわんわん、と長《なが》く余韻《よいん》がつづいた。すると吉彦《よしひこ》さんが、
「西《にし》の谷《たに》も東《ひがし》の谷《たに》も、北《きた》の谷《たに》も南《みなみ》の谷《たに》も鳴《な》るぞや。ほれ、あそこの村《むら》も、あそこの村《むら》も、鳴《な》るぞや。」
と、謎《なぞ》のようなことをいった。
「ほんとだ、ほんとだ。」
と、樽屋《たるや》の木之助《きのすけ》爺《じい》さんと、ほか二、三|人《にん》の老人《ろうじん》があいづちをうった。
 ぼくは何《なん》のことやらわけが分《わ》からなかったので、あとでお父《とう》さんにきいて見《み》たら、お父《とう》さんはこう説明《せつめい》してくれた。
「ごんごろ鐘《がね》ができたのは、わたしのお祖父《じい》さんの若《わか》かったじぶんで、わたしもまだ生《う》まれていなかった昔《むかし》のことだが、その頃《ころ》は村《むら》の人達《ひとたち》はみなお金《かね》というものを少《すこ》ししか持《も》っていなかったので、村中《むらじゅう》がその僅《わず》かずつのお金《かね》を出《だ》しあっても、まだ鐘《かね》を一つつくるには足《た》りなかった。そこで西《にし》や東《ひがし》や南《みなみ》や北《きた》の谷《たに》に住《す》んでいる人《ひと》たちやら、もっと遠《とお》くのあっちこっちの村《むら》まで合力《ごうりょく》してもらいにいったんだそうだ。合力《ごうりょく》というのは、たすけてもらうことなのさ。そうしてようやくできあがった鐘《かね》だから、四方《しほう》の谷《たに》の人《ひと》や向《む》こうの村々《むらむら》の人《ひと》
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