の心《こころ》もこもっているわけだ。だからごんごろ鐘《がね》をつくと、その谷《たに》や村《むら》の音《おと》もまじっているように聞《き》こえるのだよ。」
ごんごろ鐘《がね》をおろすのは、庭師《にわし》の安《やす》さんが、大《おお》きい庭石《にわいし》を動《うご》かすときに使《つか》う丸太《まるた》や滑車《せみ》を使《つか》ってやった。若《わか》い人達《ひとたち》が手伝《てつだ》った。馴《な》れないことだからだいぶん時間《じかん》がかかった。
ごんごろ鐘《がね》はひとまず鐘楼《しゅろう》の下《した》に新筵《にいむしろ》をしいて、そこにおろされた。いつも下《した》からばかり見《み》ていた鐘《かね》が、こうして横《よこ》から見《み》られるようになると、何《なに》か別《べつ》のもののような変《へん》な感《かん》じがした。緑青《ろくしょう》がいっぱいついている上《うえ》に、頂《いただき》の方《ほう》には埃《ほこり》がつもっているので、かなりきたなかった。庵主《あんじゅ》さんと、よく尼寺《あまでら》の世話《せわ》をするお竹《たけ》婆《ばあ》さんとが、縄《なわ》をまるめてごしごしと洗《あら》った。
すると今《いま》まではっきりしなかった鐘《かね》の銘《めい》も、だいぶんはっきりして来《き》た。吉彦《よしひこ》さんがちょっと読《よ》んで見《み》て、
「こりゃ、お経《きょう》だな。」
といった。それからまた、
「安永《あんえい》何《なん》とか書《か》いてあるぜ。こりゃ安永年間《あんえいねんかん》にできたもんだ。」
といった。すると、どもりの勘太《かんた》爺《じい》さんが、
「そ、そうだ。う、う、おれの親父《おやじ》が、う、う、生《う》まれたとしにできた、げな。お、お、親父《おやじ》は安永《あんえい》の、う、う、うまれだ。」
と、かみつくようにいった。
紋次郎君《もんじろうくん》とこの婆《ばあ》さんが、
「三河《みかわ》のごんごろという鐘師《かねし》がつくったと書《か》いてねえかン。」
ときいた。
「そんなことは書《か》いてねえ、助九郎《すけくろう》という名《な》が書《か》いてある。」
と、吉彦《よしひこ》さんが答《こた》えると、婆《ばあ》さんは何《なに》かぶつくさいってひっこんだ。
和太郎《わたろう》さんが牛車《ぎゅうしゃ》をひいて来《き》たとき、きゅうに庵主《あんじゅ》さんが、鐘供養《かねくよう》をしたいといい出《だ》した。大人《おとな》たちは、あまり時間《じかん》がないし、もうみんなじゅうぶん別《わか》れを惜《お》しんだのだから、鐘供養《かねくよう》はしなくてもいいだろう、といった。しかし若《わか》い尼《あま》さんは、眼鏡《めがね》をかけた顔《かお》に真剣《しんけん》な表情《ひょうじょう》をうかべて、「いいえ、自分《じぶん》の体《からだ》を熔《と》かして、爆弾《ばくだん》となってしまう鐘《かね》ですから、どうしても供養《くよう》をしてやりとうござんす。」といった。
大人《おとな》たちは、やれやれ、といった顔《かお》つきをした。みんな、庵主《あんじゅ》さんがしようのない頑固者《がんこもの》であることを知《し》っていたからだ。しかし庵主《あんじゅ》さんのいうことも道理《どうり》であった。
鐘供養《かねくよう》というのは、どんなことをするのかと思《おも》っていたら、ごんごろ鐘《がね》の前《まえ》に線香《せんこう》を立《た》てて庵主《あんじゅ》さんがお経《きょう》をあげることであった。庵主《あんじゅ》さんは、よそゆきの茶色《ちゃいろ》のけさを着《き》て、鐘《かね》のまえに立《た》つと、手《て》にもっている小《ちい》さい鉦《かね》をちーんとたたいて、お経《きょう》を読《よ》みはじめた。はじめはみんな黙《だま》ってきいていたが、少《すこ》したいくつになったので、お経《きょう》を知《し》っている大人達《おとなたち》は、庵主《あんじゅ》さんといっしょに唱《とな》え出《だ》した。何《なん》だか空気《くうき》がしめっぽくなった。まるでお葬《とむら》いのような気《き》がした。年寄《としよ》りたちはみなしわくちゃの手《て》を合《あ》わせた。
鐘供養《かねくよう》がすんで、庭師《にわし》の安《やす》さんたちが、またごんごろ鐘《がね》を吊《つ》りあげると、その下《した》へ和太郎《わたろう》さんが牛車《ぎゅうしゃ》をひきこんで、うまいぐあいに、牛車《ぎゅうしゃ》の上《うえ》にのせた。その時《とき》、黄色《きいろ》い蝶《ちょう》が一つごんごろ鐘《がね》をめぐって、土塀《どべい》の外《そと》へ消《き》えていった。
和太郎《わたろう》さんが牛《うし》を車《くるま》につけているとき、みんなはまたいろいろなことをいった。
「この鐘《かね》がなしになると、これから報恩講《ほうおんこう》のときなんかに、人《ひと》を集《あつ》めるのに困《こま》るわなア。」
といったのは、いつも真面目《まじめ》なことしか言《い》わない種《たね》さんだ。
「なあに、学校生徒《がっこうせいと》を呼《よ》んで来《き》て、ラッパを吹《ふ》かせりゃええてや。トテチテタアをきいたら、みんな、ほれ報恩講《ほうおんこう》がはじまると思《おも》って出《で》かけりゃええ。」
と答《こた》えたのは、ひょっとこづらをして見《み》せることの上手《じょうず》な松《まつ》さん。
「ほんな馬鹿《ばか》な。ラッパで爺《じい》さん婆《ばあ》さんを集《あつ》めるなどと、ほんな馬鹿《ばか》な。」
と、種《たね》さんはしかたがないように笑《わら》った。
「これでごんごろ鐘《がね》もきっと爆弾《ばくだん》になるずらが、あんがい、四郎五郎《しろごろう》さんとこの正男《まさお》さんの手《て》から敵《てき》の軍艦《ぐんかん》にぶちこまれることになるかもしれんな。」
と吉彦《よしひこ》さんがいった。四郎五郎《しろごろう》さんの家《いえ》の正男《まさお》さんは、海《うみ》の荒鷲《あらわし》の一人《ひとり》で、いま南《みなみ》の空《そら》に活躍《かつやく》していらっしゃるのだ。
「うん、そうよなあ。だが、正男《まさお》の奴《やつ》も、ごんごろ鐘《がね》でできた爆弾《ばくだん》たあ知《し》るめえ。爆弾《ばくだん》はものをいわねえでのオ。」
と無口《むくち》でがんじょうな四郎五郎《しろごろう》さんは、煙草《たばこ》をすいながらぽつりぽつり答《こた》えた。
「だが、これだけの鐘《かね》なら爆弾《ばくだん》が三つはできるだろうな。」
と、誰《だれ》かがいった。
「そうよなあ、十はできるだら。」
と誰《だれ》かが答《こた》えた。
「いや三つぐれえのもんだら。」
と、はじめの人《ひと》がいった。
「いいや、十はできるな。」
と、あとの人《ひと》が主張《しゅちょう》した。僕《ぼく》はきいていておかしくなった。爆弾《ばくだん》にも五十キロのもあれば五百キロのもあるというように、いろいろあることを、この人《ひと》たちは知《し》らないらしい。しかし僕《ぼく》にも五十キロの爆弾《ばくだん》ならいくつできるか、五百キロのならいくつできるか、ということはわからなかった。
いよいよごんごろ鐘《がね》は出発《しゅっぱつ》した。老人達《ろうじんたち》は、また仏《ほとけ》の御名《みな》を唱《とな》えながら、鐘《かね》にむかって合掌《がっしょう》した。
鐘《かね》には吉彦《よしひこ》さんがひとりついて、町《まち》の国民学校《こくみんがっこう》の校庭《こうてい》までゆくことになっていた。そこには、近《ちか》くの村々《むらむら》からあつめられた屑鉄《くずてつ》の山《やま》があるということだった。
ぼくたち村《むら》の子供《こども》は、見送《みおく》るつもりでしばらく鐘《かね》のうしろについていった。来《こ》さん坂《ざか》[#「来《こ》さん坂《ざか》」に傍点]もすぎたが、誰一人《だれひとり》帰《かえ》ろうとしなかった。小松山《こまつやま》のそばまで来《き》たが、まだ誰《だれ》も帰《かえ》るようすを見《み》せなかった。帰《かえ》るどころか、みんなの顔《かお》には、町《まち》まで送《おく》ってゆこう、という決意《けつい》があらわれていた。
しかし僕《ぼく》たちは小《ちい》さい子供《こども》はつれてゆくわけにはいかなかった。そこで松男君《まつおくん》の提案《ていあん》で、新《しん》四|年《ねん》以下《いか》の者《もの》はしんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]から村《むら》へ帰《かえ》り、新《しん》五|年《ねん》以上《いじょう》の者《もの》が、町《まち》までついてゆくことにきまった。
しんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]で、十五|人《にん》ばかりの小《ちい》さい者《もの》がうしろに残《のこ》った。ところが、そこでちょっとした争《あらそ》いが起《お》こった。新《しん》四|年《ねん》だから、帰《かえ》らねばならないはずの比良夫君《ひらおくん》が、帰《かえ》ろうとしなかったからだ。五|年《ねん》以上《いじょう》の者《もの》が、帰《かえ》れ帰《かえ》れ、というと、比良夫君《ひらおくん》はいうのだった。
「俺《おれ》あ、今《いま》四|年《ねん》だけれど、一|年《ねん》のときいっぺんすべっとる(落第《らくだい》している)で、年《とし》は五|年《ねん》とおんなじだ。」
なるほど、それも一つのりくつである。しかし五|年《ねん》以上《いじょう》の者《もの》は、そんなりくつは通《とお》させなかった。とうとう腕《うで》ずくで解決《かいけつ》をつけることになった。
松男君《まつおくん》が比良夫君《ひらおくん》に引《ひ》っ組《く》んだ。そして足掛《あしか》けで倒《たお》そうとしたが、比良夫君《ひらおくん》は相撲《すもう》の選手《せんしゅ》だから、逆《ぎゃく》に腰《こし》をひねって松男君《まつおくん》を投《な》げ出《だ》してしまった。
こんどは用吉君《ようきちくん》が、得意《とくい》の手《て》で相手《あいて》の首《くび》をしめにかかったが、反対《はんたい》に自分《じぶん》の首《くび》をしめつけられ、ゆでだこのようになってしまった。
そんなことをしている間《あいだ》に、鐘《かね》をのせた牛車《ぎゅうしゃ》はもうしんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]をおりてしまっていた。五|年《ねん》以上《いじょう》の者《もの》は、気《き》がせいてたまらなかった。ぐずぐずしていると、ついに鐘《かね》にいってしまわれるおそれがあった。そこで、比良夫君《ひらおくん》のことなんかほっといて、みんな鐘《かね》めがけて走《はし》った。総勢《そうぜい》十五|人《にん》ほどであった。鐘《かね》に追《お》いついてみると、ちゃんと比良夫君《ひらおくん》がうしろについて来《き》ていた。みんなは少《すこ》しいまいましく思《おも》ったが、考《かんが》えてみると、それだけ比良夫君《ひらおくん》の熱心《ねっしん》がつよいことになるわけだから、みんなは比良夫君《ひらおくん》を許《ゆる》してやることにした。
川《かわ》の堤《つつみ》に出《で》たとき、紋次郎君《もんじろうくん》が猫柳《ねこやなぎ》の枝《えだ》を折《お》って来《き》て鐘《かね》にささげた。ささげたといっても、鐘《かね》のそばにおいただけである。すると、みんなは、われもわれもと、猫柳《ねこやなぎ》をはじめ、桃《もも》や、松《まつ》や、たんぽぽや、れんげそうや、なかにはペンペン草《ぐさ》までとって来《き》て鐘《かね》にささげた。鐘《かね》はそれらの花《はな》や葉《は》でうずまってしまった。
こうして僕《ぼく》たちは村《むら》でただひとつのごんごろ鐘《がね》を送《おく》っていった。
三|月《がつ》二十三|日《にち》
ひるまえ、南道班《みなみみちはん》子供常会《こどもじょうかい》をするために尼寺《あまでら》へいった。
いつも常会《じょうかい》をひらくまえに、境内《けいだい》をみんなで掃除《そうじ》することになっているのだが、きょうは僕《ぼく》はひとつみんな
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