の気《き》のつかないところをしてやろうと、御堂《みどう》の裏《うら》へまわって、藪《やぶ》と御堂《みどう》の間《あいだ》のしめった落《お》ち葉《ば》をはいた。裏《うら》へまわっていいことをしたと思《おも》った。それは僕《ぼく》の好《す》きな白椿《しろつばき》が咲《さ》いているのを見《み》つけたからだ。
何《なん》というよい花《はな》だろう。白《しろ》い花《か》べんがふかぶかとかさなりあい、花《か》べんの影《かげ》がべつの花《か》べんにうつって、ちょっとクリーム色《いろ》に見《み》える。神《かみ》さまも、この花《はな》をつつむには、特別上等《とくべつじょうとう》の澄《す》んだやわらかな春光《しゅんこう》をつかっていらっしゃるとしか思《おも》えない。そのうえ、またこの木《き》の葉《は》がすばらしい。一|枚《まい》一|枚《まい》名工《めいこう》がのみで彫《ほ》ってつけたような、厚《あつ》い固《かた》い感《かん》じで、黒《くろ》と見《み》えるほどの濃緑色《のうりょくしょく》は、エナメルをぬったようにつややかで、陽《ひ》のあたる方《ほう》の葉《は》は眼《め》に痛《いた》いくらい光《ひかり》を反射《はんしゃ》するのだ。
じつにすばらしい花《はな》が日本《にっぽん》にはあるものだ。いつかお父《とう》さんが、日本《にっぽん》ほど自然《しぜん》の美《び》にめぐまれている国《くに》はないとおっしゃったが、ほんとうにそうだと思《おも》う。
掃除《そうじ》が終《お》わって、いよいよ第《だい》二十|回《かい》常会《じょうかい》を開《ひら》こうとしていると、きこりのような男《おとこ》の人《ひと》が、顔《かお》の長《なが》い、耳《みみ》の大《おお》きい爺《じい》さんを乳母車《うばぐるま》にのせて、尼寺《あまでら》の境内《けいだい》にはいって来《き》た。
きけばその爺《じい》さんは深谷《ふかだに》の人《ひと》で、ごんごろ鐘《がね》がこんど献納《けんのう》されるときいて、お別《わか》れに来《き》たのだそうだ。乳母車《うばぐるま》をおして来《き》たのは爺《じい》さんの息子《むすこ》さんだった。
深谷《ふかだに》というのは僕《ぼく》たちの村《むら》から、三|粁《キロ》ほど南《みなみ》の山《やま》の中《なか》にある小《ちい》さな谷《たに》で、僕《ぼく》たちは秋《あき》きのこをとりに行《い》って、
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