んせき》のものとて一人もない、まったくのみなしごであった。そこで巳之助は、よその家の走り使いをしたり、女の子のように子守《こもり》をしたり、米を搗《つ》いてあげたり、そのほか、巳之助のような少年にできることなら何でもして、村に置いてもらっていた。
けれども巳之助は、こうして村の人々の御世話で生きてゆくことは、ほんとうをいえばいやであった。子守をしたり、米を搗いたりして一生を送るとするなら、男とうまれた甲斐《かい》がないと、つねづね思っていた。
男子は身を立てねばならない。しかしどうして身を立てるか。巳之助は毎日、ご飯を喰《た》べてゆくのがやっとのことであった。本一冊買うお金もなかったし、またたといお金があって本を買ったとしても、読むひまがなかった。
身を立てるのによいきっかけがないものかと、巳之助はこころひそかに待っていた。
すると或《あ》る夏の日のひるさがり、巳之助は人力車《じんりきしゃ》の先綱《さきづな》を頼まれた。
その頃《ころ》岩滑新田には、いつも二、三人の人力曳《じんりきひき》がいた。潮湯治《しおとうじ》(海水浴のこと)に名古屋から来る客は、たいてい汽車で半田《はんだ》まで来て、半田から知多《ちた》半島西海岸の大野や新舞子まで人力車でゆられていったもので、岩滑新田はちょうどその道すじにあたっていたからである。
人力車は人が曳くのだからあまり速くは走らない。それに、岩滑新田と大野の間には峠《とうげ》が一つあるから、よけい時間がかかる。おまけにその頃の人力車の輪は、ガラガラと鳴る重い鉄輪《かなわ》だったのである。そこで、急ぎの客は、賃銀を倍《ばい》出《だ》して、二人の人力曳にひいてもらうのであった。巳之助に先綱曳を頼んだのも、急ぎの避暑客であった。
巳之助は人力車のながえ[#「ながえ」に傍点]につながれた綱を肩にかついで、夏の入陽《いりひ》のじりじり照りつける道を、えいやえいやと走った。馴《な》れないこととてたいそう苦しかった。しかし巳之助は苦しさなど気にしなかった。好奇心でいっぱいだった。なぜなら巳之助は、物ごころがついてから、村を一歩も出たことがなく、峠の向こうにどんな町があり、どんな人々が住んでいるか知らなかったからである。
日が暮れて青い夕闇《ゆうやみ》の中を人々がほの白くあちこちする頃、人力車は大野の町にはいった。
巳之助はその町で
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