誘拐者
山下利三郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)帰途《かえりみち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)綿布問屋|新田善兵衛《にったぜんべえ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+耳」、第3水準1−14−94]
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        上 悪魔の手

 綿布問屋|新田善兵衛《にったぜんべえ》の娘ゆき子は公会堂からの帰途《かえりみち》何者かに誘拐されてしまった、当夜伴をして一緒に行った女中の話によると同夜××夫人の演奏会が済んで公会堂を出た主従は電車に乗って家近くの停留場で降りた、家の方へ曲ろうとするとゆき子は弟の善太郎《ぜんたろう》に喰《たべ》させる菓子を女中に買いにやった、女中は菓子を買い求めて前の所に来て見ると、主人の姿がなかったので待たずに帰ったのかと思って、戸を開け離座敷のゆき子の室《へや》へ行ったが帰って居ない、善兵衛に聞くとまだ帰らないという、店の若い人達も娘の姿を見たものがない、女中は怪訝《けげん》な顔をして、引返し停留場附近を探し求めたが、更に判らないので律気な彼女は半泣の体で帰って来て、善兵衛に斯《か》くと告げた、善兵衛も驚いて心当りへ電話で聞合せたり、居合す店員を指揮して知辺《しるべ》を尋ねたが皆手を空《むな》しく帰って来たのである。
 其うち善兵衛が娘の部屋を調べると、机の抽出から戦慄《せんりつ》すべき脅迫状が現れた。白の封筒に白い書簡箋《レターペーパー》に左《さ》の意味が書かれてあった。
[#ここから2字下げ]
今迄数回の通告に応諾の意を表さなかった貴女《あなた》は当然制裁を甘受せねばなりません、明夜十時三十分を期して密《ひそ》かに、戸外へ出て一丁東の四辻まで来て下さい、この命令に従うことが、貴女及び貴女の家にとって、最も安全な得策で万一、不注意、反抗等から秘密の漏洩《ろうえい》や命令不履行の際は必然降るべき復讐の手が如何に惨虐苛酷であるかは覚悟してもらわねばならぬ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]音羽組

 兇悪なる毒手が紙背に潜むが如き、凄い文句であった、善兵衛は各若い者に自身も混って、停車場や郊外電車起点へ見張をしたが、何の効《かい》もなく何れも夜が明けてから悄然《しょうぜん》と引上て来た、然るに朝になって悪魔は嘲《あざけ》る如く又も新田一家を愚弄した、それは配達された一通の郵便で、粗悪な封筒と巻紙に墨痕踊るが如く
[#ここから2字下げ]
昨夜以来御心痛|奉拝察候《はいさつたてまつりそうろう》、御令嬢は恙《つつが》なく我輩の掌中に在之候《これありそうら》えば慮外ながら、御放念相成度万一御希望なれば、金一万五千円○○山麓記念碑|裡《うち》、稚松《わかまつ》の根方へ御埋没あり次第御帰還の取計可仕《とりはからいつかまつるべく》、最も安全なるべき警察力を利用せらるるは、貴家にとりて却て怖るべき禍根と相なるべく慎重なる御熟考を勧むる所以《ゆえん》に御座候。敬具
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]音羽組
と毒づいてあったので、剛毅な善兵衛も色を失った、消印を見ると三十|哩《マイル》斗《ばか》り隔た□□市から速達便で郵送されたことが判った。
 善兵衛は警察の手を借ることに躊躇《ちゅうちょ》した、それは兇漢の復讐を怖れるよりも、事件の公表されることを憚《はばか》ったのである。ゆき子は十日程前に当市の市参事会員|橋本《はしもと》氏の紹介で、現在勅選議員で羽振の利く森本庄右衛門《もりもとしょうえもん》の次男から結婚の申込を受けた、善兵衛からゆき子の意嚮《いこう》を聞くと、一週間ほど考えさせてくれとのことで、漸《やっ》と一昨日《おととい》内諾の意を父に伝えた、善兵衛は大に歓んだ、初め新田の方に差支があれば何程かの持参金附で養子に行《やっ》てもよいと先方からの申條《もうしじょう》に大変乗気で、此良縁こそ逃すまいと力を入れて、明日にも橋本氏へ承諾の回答を送るべき矢先であった。
 春日《かすが》が電話に接して、助手兼秘書の渡邊《わたなべ》を同伴《つれ》て新田家を見舞ったのは第二の脅迫状の着いた間もなくで主人は二人を客間に通して、具《つぶさ》に昨夜以来の出来事を語り、証拠の書状二通をも渡して見せた、春日は渡邊に顛末《てんまつ》をすべて速記させ、尚手紙も詳細に調べたがそれは、預って懐中《ポケット》へ収めた。
「どうでしょう、万一娘に瑕《きず》でもつけられるようなことになると困りますから、至急□□市へ出張して調べて貰えませんか」
「それよりお嬢様のお部屋を調査させて貰いましょう、誰れか朝から、そこを掃除するか出入した方がありますか」
「否《いや》昨夜私が鏡台と、机の抽出を探した外《ほか》に未だ誰も這入ません」
 椽側から廊下伝いに、離座敷の階下ゆき子の部屋へ導かれた、整然《きっちり》片附られた座敷の正面床の脇に、淋しく立掛られてある琴が、在らぬ主の俤《おもかげ》を哀れに偲《しの》ばせた、春日は中央《まんなか》でじっと四辺《あたり》を見廻して後、箪笥《たんす》の抽出を下の方から順に抜て錠を一つ一つ入念に調べた、それを差し終って、地袋を開くと中に新刊らしい書籍が薄暗の中から金文字を輝かしている。横には、菓子器と歌留多《かるた》の箱があったので叮嚀に何れも蓋を取て中を検《しら》べ、軈《やが》てもとのようにすると、押入を開けて本箱の中から数冊の書籍や前年度の日記を撰り出して精密に調べ始めた、其間《そのあいだ》に渡邊は、此家の見取図を書くべく命ぜられて鉛筆を忙しく走らせる。
 善兵衛は不平らしく手持|無沙汰《ぶさた》に控えた、娘の一身安危の場合に杖とも頼む春日が、機敏に□□市へ急行して呉《く》れると思いの外、愚にもつかぬ方を調べているのに業を煮し、早やその手腕をさえ疑い、眼に軽侮の色を浮べて、せわしく咳払《せきばらい》をしはじめた、春日はそんなことに頓着せず押入の隅から、火気のない火鉢を障子の際まで持出し、頻りに灰を掻廻し何やら紙を出して包んだ、そして更に机や手文庫を逐一調べて腑に落ちないか、チェッと舌撃《したうち》をしたが、突如《いきなり》しゃがむと机の下から座蒲団と共に、皺になった新しい手巾《ハンカチーフ》を引摺出した、飽かず眺めてちょっと鼻に嗅《か》いで満足らしい笑《えみ》を漏した。善兵衛は莫迦莫迦《ばかばか》しいと云ったふうに、顔を外向《そむけ》てしまった、こんどは渡邊の描いた見取図を受取て、
「フーム、Fの字見たいな建方だな、この離れが一番上の横線に該当するね、中庭を隔てて御主人の居間と向合うて二階が弟さんの御部屋か……」こう呟いて沓脱《くつぬぎ》の駒下駄を履くと、グルッと庭を廻って座敷の裏手へ出た、そこは納屋と空地があり、忍返しのついた黒板塀で囲われてある、足許に注意しながら春日は塀の隙間《すきま》から覗いた、外は小路を隔てて向側は他家《よそ》の塀で、通行は稀らしい。
 眼を離すとき左手の丸木柱と塀との間に、六寸程の竹片《たけぎれ》が挟んであるのを見附て、指を差込だが春日の指に比べて隙間が少し狭かった、漸く取出してみると、尖端《さき》に泥が乾《かわ》き着いていた、足許に気がつくと柱の根元三寸程の所塀に密接して、新しく土を埋めたらしく柔らかくなっている竹片を紙にくるんで懐中《ポケット》へ入れると台所の方へ歩いていった。
 襷《たすき》がけ忙《せわ》しく働いていた下女は二人とも、春日の姿を見ると叮嚀にお辞儀をした、その一人の方へ近づくと優しく、
「貴方でしたか昨夜《ゆうべ》お嬢様のお伴をなすったのは……飛んだ御心配ですね、お忙しいのに気の毒ですが少しお尋ねします、昨夜最初ここへ帰ったときは何時でしたか」
「十時三十五分には少し前でした」
「裏の納屋の方は誰れがいつもお掃除をせられますか」
「毎朝お嬢様が運動だと仰有ってお掃きなさいますので、妾《わたし》達はあそこの掃除をしたことはございません」
「お嬢様のお召物を買うのはいつも主に何処です、それから当家の墓地は何処ですか」
「横町の大村屋《おおむらや》で御座います、お墓は○△寺です」
「よく気のつく愉快な方であったと思いますが、前は気難しい沈だ方ではなかったですか」
「よく御存じですこと、この春までは仰言るとおり陰気なお方で、お変りになったのには妾も不思議に思っているので御座いますよ」
「よく判りました、有がとう御邪魔しましたね」
 会釈《えしゃく》して春日は旧《もと》の客間へ還った、善兵衛は苦り切って居た。併しまだ少し既往について直聴して置く必要があった。
「この度の結婚の話の外に以前に何処からか、申込がありましたか」
「エエありましたとも沢山ありました、この前のは東京に開業して居る年|老《とっ》た医者が、四月頃来て田舎の甥に嫁が欲しい、少々の財産もあって両親《ふたおや》には早く別れて兄弟二人きりだとかで、本人は文学士だと云ってましたがこれは余り話にも、気乗がしなかったので謝絶《ことわり》しました」
 春日は更に一年間の、家庭用領収簿の閲覧を要求した、善兵衛は忌々し気に立上り帳簿を取って来て見せたが、春日の悠々として迫らず一頁毎に眼を通してゆく態度に、堪え忍んだ肝癪《かんしゃく》を破裂させた、顔を蒼くして唸《うめ》くようにいった。
「止めてもらいましょうッ、娘が疵物になるかならぬか危急の際ですぞ、貴方は他人じゃから痛痒を感ぜぬか知らぬが、頼まれた上は何故□□へ行って下さらん、愚図々々詰らんことを調べて何になりますかっ、余《あんま》りな仕打ですぞ」
 春日は呆れたように相手の顔を見上げ、
「□□へ行く必要があるんですか?」
「必要があるか? 娘は今現在□□で悪い奴の、手で苦しめられて逃げることも出来ずに、泣いて居るのですぜ、もう貴方には頼まん、初めから警察へ持てゆかなんだが俺《わし》の手落じゃ、警察へ頼みます、帰って下さい」
「そうです、そうすれば貴方の名誉と信用と、それから御希望を砕いてしまうのに一番早道ですね、まあそう怒るものじゃありません。大体御依頼がなくとも此事件は調査しなければならないのです、居所だけでも報告して上げましょう」
「余計なお世話だ、どうせ碌《ろく》なことが判るものか、何一つ頼みませんぞ、若僧に何が出来るかッ」
「そうですか、では御随意に、角《つの》を撓《た》めようとして牛を殺さないように」
「ナニ何ですと」
「イヤお邪魔でしたね渡邊君帰ろう、左様なら」
 善兵衛は激怒のあまり、証拠の書類を取戻すことさえ忘れていた。

        下 最後の訪問

 新田家を辞した春日は、電車通りまでゆくと渡邊には役場へ戸籍と名寄帳《なよせちょう》を写しに行くよう命じておいて、自分は市内でも一流の文房具や帳簿等を売る店を訪ねて、余り急ぎもせずに事務所へ帰った、暫くすると自転車から降りたらしい若者が慌しく這入てきて、自分は新田の店員だが主人の命で、証拠の書類を返して貰いにきた、と告げたから春日は笑いながら返してやると、そそくさと走り去った。
 兎角《とかく》する内に渡邊が帰って、筆写書類を見せた、戸籍を見るとゆき子の母は家附の娘で前夫も入夫《ようし》であったが、十八年前死亡し、それから一年ほどしてから、今の善兵衛が入家した後、長男の善太郎が生れたので、母はゆき子が十七歳、善太郎が十一歳の年に病死した、ゆき子は数え年二十二歳としてあった。
 ゆき子名義の宅地五筆合計千七百五十坪はそれぞれ設定がしてあった。
「成程八十五円平均か、まあそんなものだろう」
と判らないことを呟いたが、気をかえて簡単に食事をすませると、渡邊を伴《つ》れて麗《うらら》かな秋の街を散歩でもするような足どりで歩き出した、二人は漸次《だんだん》郊外の方へ近よると、其所《そこ》には黒ずんだ○△寺の山門が見えた、春日は石畳の道を切れて爪先登りの墓地へ入り込んだ、累々たる墓碑の中から目的のを見出すにも、さほど暇はかからなか
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