《ことば》に放浪者はちょっと眼をぱちくりさせた。
「何でございます、それは」
「いや、この人はそういったようなことをよく小説に書く人ですが、それよりもっと興味のあるお噺でした。しかし十年近い年月をよく忍耐できましたね。一体誰がその蕗子という娘を殺したのでしょう」
「誰が殺したにしたところで、それはもう過去《すぎさ》ったことで、幾ら詮議《せんぎ》したとて彼女は生還《いきかえ》っては来ないではありませんか。蕗子が生存しない以上私がこの世に残って何をしようと同じことです。刑務所で暮すことも決して苦痛だとは考えませんでした」
「実に不可解な心持ですな。事実として考えることのできないような」
「いくら小説をお描きになる貴方でもまだお若いから、御想像がつかないかも知れませんが、中年者の恋はそれだけ棄身《すてみ》で真剣なのです……いや、図に乗って四十を越えた私が気のさすお話をして恐縮です。もう夜も更けたようですからこれでお暇いたします。初めてお目に懸った貴方に、とんだ御散財をかけて済みません、ではこのお名刺も戴いてまいります」
 叮寧《ていねい》に頭を下げた放浪者は静かに上衣の釦《ボタン》をかけて立
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