蕗子は他の部屋にでも行っていたのか、その部屋は空っぽだったのです。
 分厚い手紙が、指先を放れて、窓障子の間からぱさりと音をたてて落ちました。
 私は見咎《みとが》められないように窓の下を放れて、私の家へ帰りましたが、そのからんとした空家……もうこれでお別れかと思うと、梁《はり》にかけられた蜘蛛《くも》の巣までに愛着が感じられたのです。気を取直して荷物を携げて停車場までゆきましたが、予定の汽車が出るまでには、まだ二時間近くも余裕があります。
 駅前の休憩所で時間を待合わせる間にも、駅を出入りする人影に気をとられていました。お笑い下さいますな、万一あの手紙を読んだ蕗子が、ここへ駈つけて来はしないかと、ふとそんなふうに考えられたからです。
(済みませんでした、旅へなど出ないで下さいな)。
 彼女の唇からそうした詞《ことば》が聞けるものなら、その場で生命を投出したところで惜しくはなかったでしょう、私はとても静《じっ》と沈着《おちつ》いては居られませんでした。
 休憩所をふらふらと出て、夢遊病者《むゆうびょうしゃ》のように町から村を過ぎ、私の住居だった家なんか見顧《みかえ》りもしないで、畑の畔
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