《ことば》に放浪者はちょっと眼をぱちくりさせた。
「何でございます、それは」
「いや、この人はそういったようなことをよく小説に書く人ですが、それよりもっと興味のあるお噺でした。しかし十年近い年月をよく忍耐できましたね。一体誰がその蕗子という娘を殺したのでしょう」
「誰が殺したにしたところで、それはもう過去《すぎさ》ったことで、幾ら詮議《せんぎ》したとて彼女は生還《いきかえ》っては来ないではありませんか。蕗子が生存しない以上私がこの世に残って何をしようと同じことです。刑務所で暮すことも決して苦痛だとは考えませんでした」
「実に不可解な心持ですな。事実として考えることのできないような」
「いくら小説をお描きになる貴方でもまだお若いから、御想像がつかないかも知れませんが、中年者の恋はそれだけ棄身《すてみ》で真剣なのです……いや、図に乗って四十を越えた私が気のさすお話をして恐縮です。もう夜も更けたようですからこれでお暇いたします。初めてお目に懸った貴方に、とんだ御散財をかけて済みません、ではこのお名刺も戴いてまいります」
 叮寧《ていねい》に頭を下げた放浪者は静かに上衣の釦《ボタン》をかけて立上った。
 その抜け上った額や、痩せて弛みのできた頬が、いかにも人の好さそうなそして平和らしい相貌に見えて、小村は何となしにこの儘で別れてしまうのが寂しかった。
「今からどこへいらっしゃるのです、まさか東京へ帰るのじゃないでしょう」
「はい、実は梅田《うめだ》停車場の裏の方に、少々|知辺《しるべ》がありますから、行って泊めて貰おうかと思っています」
「あのウ、悪く思わないで下さいよ、万一その家が起きてくれなかったら、宿屋へ泊る足しにでもして下さい」
 小村は蟇口《がまぐち》から一枚の紙幣をつまみ出して相手に握らせた。放浪者はひどく辞退していたが、熱心な小村の辞《ことば》に動かされてしまった。
「御好意に甘えさせて貰います。御親切は永く忘れません、御縁があればまたお目に懸《かか》れるでしょう。どうぞ立派な小説をお描きになりますよう、陰からお祈りしています」
「不意にお呼止めしたのを慍《おこ》りもなさらないで、よく来て下さいました。ほんとうにいつか又お目にかかりたいものですね」
 小村に送られて階段を降り、卓の間を縫って扉口まできたが、こんどは先刻のように怪訝《けげん》らしい眼で眺める人は
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