誰も居なかった。
 扉の内と外とで感銘的な挨拶が交された。
「いろいろ有がとうございました、では御機嫌よく……」
「貴方もお壮健で……お気をつけていらっしゃい」
 戸外は相かわらず紺絣《こんがすり》を振るように、霙《みぞれ》が風にあふれて降って、疎《まば》らに道ゆく人も寒そうに傘の下に躯を固くしながら歩いている。放浪者は腕を組合せたまま肩をすくめて、電車にも乗ろうとしないで灯影の少い街に向って消えてゆく。可惜《あたら》かわした上衣の襟に袖に、降りそそぐ氷雨をまともに受けて。
「電車にも乗らないで……ひとに姿を見られるのが厭《いと》わしいのだろうか、前科者の怯目《ひがめ》を自分から遠慮してかかっているのか?」
 いつまでもいつまでも硝子扉の蔭から、その姿が見えなくなるまで見送って、こう呟いた小村はそれからやっと二階へ引返し暖炉の傍へ寄ったまま、先刻からの状景をもう一度彼の頭脳の中にくりかえして見た。
 私は先刻ここで川上《かわかみ》と頻《しき》りに主題循環論をやった、そのうち川上は帰ってしまったのだ……それから私はこんな氷雨ふる夜を捕吏に逐《お》われて逃げ廻る破獄囚《はごくしゅう》のことを考えながら、あの窓から覗いて……あの煙草屋の前を力なげに歩んでいる放浪者に心を惹きつけられた……慍られはしないかと思いながら跡を逐《お》うて呼んでみたが、彼は素直に私の招きに従ってくれた……私はあのとき雑誌記者だと云わないで小説家と答えた。あんな小さな雑誌の名を問われたら却って困るのだった……それからあの放浪者はよく飲んだ。貪るように食った。よほど餓えていたのだ……それから語りだした彼自身の数奇な経歴。
 小村はふとした好奇心を満足させるためにした行為が、飛んだ任侠的な結果に終ったことに異常な愉快さを感じて独りで微笑んだ。

 その後およそ二た月ほどの日が流れた。
 或××雑誌に久々ぶりで小村|静雄《しずお》の創作「霙ふる夜」が掲載された、作の善悪や反響の如何《いかん》はさて措《お》いて、主題が嘗《かつ》てカッフェへ招いた放浪者の談話そのままであり、そして送られた稿料で膨らんだ蟇口を押えながら、小村が文豪然と気取りながら道頓堀《どうとんぼり》あたりの盛場を、漫歩していたことは疑いもない。
 或日その漫歩から帰ってきたとき、彼の机の上に集まった郵便物の中から余り見たことのない手蹟の手紙
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