著書《ちょしょ》の坊間《ぼうかん》に現わるるもの甚《はなは》だ多し。その書の多き、随《したがっ》て誤聞《ごぶん》謬伝《びゅうでん》もまた少なからず。殊《こと》に旧政府時代の外交《がいこう》は内治に関係《かんけい》することもっとも重大《じゅうだい》にして、我国人の記念《きねん》に存《そん》すべきものもっとも多きにもかかわらず、今日すでにその事実《じじつ》を失うは識者の常に遺憾《いかん》とするところなりしに、この書|一度《ひとた》び世に出《い》でてより、天下《てんか》後世《こうせい》の史家《しか》をしてその拠《よ》るところを確実《かくじつ》にし、自《みず》から誤《あやま》りまた人を誤るの憂《うれい》を免《まぬ》かれしむるに足《た》るべし。
 先生、諭吉に序文《じょぶん》を命《めい》ず。諭吉は年来《ねんらい》他人の書に序《じょ》するを好《この》まずして一切その需《もとめ》を謝絶《しゃぜつ》するの例なれども、諭吉の先生における一|身上《しんじょう》の関係《かんけい》浅《あさ》からずして旧恩《きゅうおん》の忘るべからざるものあり。よってその関係《かんけい》の大概《たいがい》を記《しる》して序文に代《か》う。明治二十四年十月十六日、木村旧軍艦|奉行《ぶぎょう》の従僕福沢諭吉 誌《しるす》
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 同二十六年七月、予|腸窒扶斯《ちょうチフス》に罹《かか》りたるとき、先生、特《とく》に駕《が》を抂《まげ》られ、枕辺《まくらべ》にて厚く家人に看護《かんご》の心得《こころえ》を諭《さと》され、その上、予が自《みず》から搗《つ》きたる精米《せいまい》あり、これは極古米《ごくこまい》にして味軽く滋養《じよう》も多ければ、これを粥《かゆ》としまた鰹節《かつぶし》を煮出《にだ》して用《もちう》れば大に裨益《ひえき》あればとて、即時《そくじ》、价《しもべ》を馳《は》せて贈《おく》られたるなど、余は感泣《かんきゅう》措《お》くこと能《あた》わず、涕涙《ているい》しばしば被《ひ》を沾《うるお》したり。また先生の教《おしえ》に従《したが》いて赤十字社病院に入《いり》たる後も、先生|来問《らいもん》ありて識《し》るところの医官《いかん》に談じ特に予が事を託《たく》せられたるを以て、一方《ひとかた》ならず便宜《べんぎ》を得たり。数旬を経《へ》て病《やまい》癒《いえ》て退院《たいいん》せんとする時、その諸費を払《はら》わんとせしに院吏《いんり》いう、君の諸入費《しょにゅうひ》は悉皆《しっかい》福沢氏より払《はら》い渡《わた》されたれば、もはやその事に及ばずとなり。
 後《のち》また数旬を経《へ》て、先生予を箱根《はこね》に伴《ともな》い霊泉《れいせん》に浴《よく》して痾《やまい》を養わしめんとの事にて、すなわち先生|一家《いっか》子女《しじょ》と共に老妻《ろうさい》諸共《もろとも》、湯本《ゆもと》の福住《ふくずみ》に寓《ぐう》すること凡《およそ》三旬、先生に陪《ばい》して或は古墳《こふん》旧刹《きゅうさつ》を探《さぐ》り、また山を攀《よ》じ川を渉《わた》り、世の塵紛《じんふん》を忘れて神洞《しんどう》仙窟《せんくつ》に遊ぶがごとく、大《おおい》に体力《たいりょく》の重量を増《ま》すに至れり。嗚呼《ああ》、先生|何《なん》ぞ予を愛《あい》するの深くして切《せつ》なるや。予何の果報《かほう》ありて、かかる先生の厚遇《こうぐう》を辱《かたじけの》うして老境《ろうきょう》を慰《なぐさ》めたりや。要するに、予の半生《はんせい》将死《しょうし》の気力を蘇《そ》し、やや快《こころよ》くその光陰《こういん》を送り、今なお残喘《ざんぜん》を延《の》べ得たるは、真《しん》に先生の賜《たまもの》というべし。
 以上|記《き》するところは、皆予が一身《いっしん》一箇《いっこ》の事にして、他人にこれを示《しめ》すべきものにあらず。またこれを記《しる》すとも、予が禿筆《とくひつ》、その山よりも高《たか》く海よりも深《ふか》き万分の一ツをもいい尽《つく》すこと能《あた》わず。またせめては先生の生前《せいぜん》において、予がいかにこの感泣《かんきゅう》すべきこの感謝《かんしゃ》[#「感謝」は底本では「感射」]すべき熱心《ねっしん》と、いかにこの欣戴《きんたい》し惜《お》かざる衷情《ちゅうじょう》とを具《つぶ》さに言《い》いも出《いで》ずして今日に至りたるは、先生これを何《なん》とか思われんなどと、一念《いちねん》ここに及ぶ毎《ごと》に、胸《むね》裂《さ》け腸《はらわた》砕《さ》けて、真《しん》に悔恨《かいこん》已《や》む能《あた》わざるなり。



底本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」講談社学術文庫、講談社
   1985(昭和60)年3月10日第1刷発行
   1998(平
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