《なかんずく》、木村摂津守の名は今なお米国において記録《きろく》に存し、また古老《ころう》の記憶《きおく》する処《ところ》にして、我海軍の歴史に堙没《いんぼつ》すべからざるものなり。
 当時、諭吉は旧《きゅう》中津藩《なかつはん》の士族にして、夙《つと》に洋学《ようがく》に志し江戸に来て藩邸内《はんていない》に在りしが、軍艦の遠洋航海《えんようこうかい》を聞き、外行《がいこう》の念《ねん》自《みず》から禁ずる能《あた》わず。すなわち紹介《しょうかい》を求めて軍艦奉行《ぐんかんぶぎょう》の邸《やしき》に伺候《しこう》し、従僕《じゅうぼく》となりて随行《ずいこう》せんことを懇願《こんがん》せしに、奉行は唯《ただ》一面識《いちめんしき》の下《もと》に容易《たやす》くこれを許《ゆる》して航海《こうかい》の列《れつ》に加わるを得たり。航海中より彼地《かのち》に至《いた》りて滞在《たいざい》僅々《きんきん》数箇月なるも、所見《しょけん》所聞《しょぶん》一として新《あらた》ならざるはなし。多年来《たねんらい》西洋の書を読《よ》み理《り》を講《こう》じて多少に得たるところのその知見《ちけん》も、今や始めて実物《じつぶつ》に接して、大《おおい》に平生《へいぜい》の思想《しそう》齟齬《そご》するものあり、また正しく符合《ふごう》するものもありて、これを要《よう》するに今度の航海は、諭吉が机上《きじょう》の学問《がくもん》を実《じつ》にしたるものにして、畢生《ひっせい》の利益これより大なるはなし。而《しこう》してその利益はすなわち木村|軍艦奉行《ぐんかんぶぎょう》知遇《ちぐう》の賜《たまもの》にして、終《つい》に忘《わす》るべからざるところのものなり。芥舟先生は少小より文思《ぶんし》に富《と》み、また経世《けいせい》の識《しき》あり。常に筆硯《ひっけん》を友として老《おい》の到るを知らず。頃日《けいじつ》脱稿《だっこう》の三十年史は、近時《きんじ》およそ三十年間、我|外交《がいこう》の始末《しまつ》につき世間に伝《つた》うるところ徃々《おうおう》誤謬《ごびゅう》多きを憂《うれ》い、先生が旧幕府の時代より身《み》躬《みず》から耳聞《じぶん》目撃《もくげき》して筆記に存《そん》するものを、年月の前後に従《したが》い順次《じゅんじ》に編集《へんしゅう》せられたる実事談《じつじだん》なり。近年、
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