びと》かに序文《じょぶん》を乞《こ》わんと思いしが、児《じ》駿《しゅん》、側《かたわら》に在《あ》りて福沢先生の高文《こうぶん》を得ばもっとも光栄《こうえい》なるべしという。然《しか》れども先生は従来《じゅうらい》他人の書に序《じょ》を賜《たま》いたること更になし、今|強《しい》てこれを先生に煩《わずらわ》さんこと然《しか》るべからずと拒《こば》んで許さざりしに、児《じ》竊《ひそ》かにこれを携《たずさ》え先生の許《もと》に至り懇願《こんがん》せしかば、先生|速《すみやか》に肯諾《こうだく》せられ、纔《わず》か一日にして左のごとくの高序《こうじょ》を賜《たま》わりたるは、実に予の望外《ぼうがい》なり。

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 木村芥舟先生は旧幕府《きゅうばくふ》旗下《きか》の士にして摂津守《せっつのかみ》と称し時の軍艦奉行《ぐんかんぶぎょう》たり。すなわち我|開国《かいこく》の後、徳川政府にて新《あらた》に編製《へんせい》したる海軍の長官《ちょうかん》なり。
 日本海軍の起源《きげん》は、安政初年の頃《ころ》より長崎にて阿蘭人《オランダじん》の伝《つた》うるところにして、伝習《でんしゅう》およそ六七年、学生の伎倆《ぎりょう》も略《ほぼ》熟《じゅく》したるに付《つ》き、幕議《ばくぎ》、遠洋《えんよう》の渡航を試《こころみ》んとて軍艦《ぐんかん》咸臨丸《かんりんまる》を艤装《ぎそう》し、摂津守を総督《そうとく》に任じて随行《ずいこう》には勝麟太郎《かつりんたろう》(今の勝|安芳《やすよし》)以下長崎|伝習生《でんしゅうせい》を以てし、太平洋を絶《わた》りて北米《ほくべい》桑港《サンフランシスコ》に徃《ゆ》くことを命じ、江戸湾を解纜《かいらん》したるは、実に安政《あんせい》六年十二月なり。首尾《しゅび》能《よ》く彼岸《ひがん》に達して滞在《たいざい》数月、帰航の途《と》に就《つ》き、翌年|閏《うるう》五月を以て日本に安着《あんちゃく》したり。
 これぞ我大日本国の開闢《かいびゃく》以来《いらい》、自国人の手を以て自国の軍艦《ぐんかん》を運転《うんてん》し遠く外国に渡《わた》りたる濫觴《らんしょう》にして、この一挙《いっきょ》以て我国の名声《めいせい》を海外諸国に鳴らし、自《おのず》から九鼎《きゅうてい》大呂《たいりょ》の重《おもき》を成したるは、事実に争うべからず。就中
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