ふよう》を問わず、乞《こ》わるるまま一々|調印《ちょういん》したるにぞ、小栗もほとんど当惑《とうわく》せりという。仏公使が幕府に対するの債権《さいけん》とはこれ等の代価《だいか》を指《さ》したる者なり。
 かかる次第《しだい》にして小栗等が仏人を延《ひ》いて種々|計画《けいかく》したるは事実《じじつ》なれども、その計画は造船所の設立、陸軍編制等の事にして、専《もっぱ》ら軍備《ぐんび》を整うるの目的《もくてき》に外ならず。すなわち明治政府において外国の金《かね》を借り、またその人を雇《やと》うて鉄道海軍の事を計画《けいかく》したると毫《ごう》も異《こと》なるところなし。小栗は幕末に生れたりといえども、その精神《せいしん》気魄《きはく》純然たる当年の三河武士《みかわぶし》なり。徳川の存《そん》する限りは一日にてもその事《つか》うるところに忠ならんことを勉《つと》め、鞠躬《きっきゅう》尽瘁《じんすい》、終《つい》に身を以てこれに殉《じゅん》じたるものなり。外国の力を仮《か》りて政府を保存《ほぞん》せんと謀《はか》りたりとの評《ひょう》の如《ごと》きは、決《けっ》して甘受《かんじゅ》せざるところならん。
 今|仮《か》りに一歩を譲《ゆず》り、幕末に際《さい》して外国《がいこく》干渉《かんしょう》の憂《うれい》ありしとせんか、その機会《きかい》は官軍《かんぐん》東下《とうか》、徳川|顛覆《てんぷく》の場合にあらずして、むしろ長州征伐《ちょうしゅうせいばつ》の時にありしならん。長州征伐は幕府|創立《そうりつ》以来の大騒動《だいそうどう》にして、前後数年の久《ひさ》しきにわたり目的《もくてき》を達するを得ず、徳川三百年の積威《せきい》はこれがために失墜《しっつい》し、大名中にもこれより幕命《ばくめい》を聞かざるものあるに至りし始末《しまつ》なれば、果《はた》して外国人に干渉《かんしょう》の意あらんにはこの機会《きかい》こそ逸《いっ》すべからざるはずなるに、然《しか》るに当時外人の挙動《きょどう》を見れば、別に異《こと》なりたる様子《ようす》もなく、長州|騒動《そうどう》の沙汰《さた》のごとき、一般にこれを馬耳東風《ばじとうふう》に付し去るの有様《ありさま》なりき。
 すなわち彼等は長州が勝《か》つも徳川が負《ま》くるも毫《ごう》も心に関《かん》せず、心に関するところはただ利益《りえき》の一点にして、或《あるい》は商人のごときは兵乱《へいらん》のために兵器《へいき》を売付《うりつ》くるの道を得てひそかに喜《よろこ》びたるものありしならんといえども、その隙《すき》に乗《じょう》じて政治的|干渉《かんしょう》を試《こころ》みるなど企《くわだ》てたるものはあるべからず。右のごとく長州の騒動《そうどう》に対して痛痒《つうよう》相《あい》関《かん》せざりしに反し、官軍の東下に引続《ひきつづ》き奥羽の戦争《せんそう》に付き横浜外人中に一方ならぬ恐惶《きょうこう》を起したるその次第《しだい》は、中国辺にいかなる騒乱《そうらん》あるも、ただ農作《のうさく》を妨《さまた》ぐるのみにして、米の収穫《しゅうかく》如何《いかん》は貿易上に関係なしといえども、東北地方は我国の養蚕地《ようさんち》にして、もしもその地方が戦争のために荒《あ》らされて生糸の輸出《ゆしゅつ》断絶《だんぜつ》する時は、横浜の貿易に非常の影響《えいきょう》を蒙《こうむ》らざるを得ず、すなわち外人の恐惶《きょうこう》を催《もよお》したる所以《ゆえん》にして、彼等の利害上、内乱《ないらん》に干渉《かんしょう》してますますその騒動を大ならしむるがごとき思《おも》いも寄《よ》らず、ただ一日も平和回復《へいわかいふく》の早《はや》からんことを望みたるならんのみ。
 また更《さ》らに一歩を進《すす》めて考《かんが》うれば、日本の内乱に際し外国|干渉《かんしょう》の憂《うれい》ありとせんには、王政維新《おうせいいしん》の後に至りてもまた機会《きかい》なきにあらず。その機会はすなわち明治十年の西南戦争《せいなんせんそう》なり。当時|薩兵《さっぺい》の勢《いきおい》、猛烈《もうれつ》なりしは幕末《ばくまつ》における長州の比《ひ》にあらず。政府はほとんど全国の兵を挙《あ》げ、加《くわ》うるに文明|精巧《せいこう》の兵器《へいき》を以てして尚《な》お容易《ようい》にこれを鎮圧《ちんあつ》するを得ず、攻城《こうじょう》野戦《やせん》凡《およ》そ八箇月、わずかに平定《へいてい》の功《こう》を奏《そう》したれども、戦争中国内の有様《ありさま》を察《さっ》すれば所在《しょざい》の不平士族《ふへいしぞく》は日夜、剣《けん》を撫《ぶ》して官軍の勢《いきおい》、利ならずと見るときは蹶起《けっき》直《ただち》に政府に抗《こう》せんとし、すでにその用意《ようい》に着手《ちゃくしゅ》したるものもあり。
 また百姓《ひゃくしょう》の輩《はい》は地租改正《ちそかいせい》のために竹槍《ちくそう》席旗《せきき》の暴動《ぼうどう》を醸《かも》したるその余炎《よえん》未《いま》だ収《おさ》まらず、況《いわ》んや現に政府の顕官《けんかん》中にも竊《ひそか》に不平士族と気脈《きみゃく》を通じて、蕭牆《しょうしょう》の辺《へん》に乱《らん》を企《くわだ》てたる者さえなきに非ず。形勢《けいせい》の急《きゅう》なるは、幕末の時に比《ひ》して更《さ》らに急なるその内乱《ないらん》危急《ききゅう》の場合に際し、外国人の挙動《きょどう》は如何というに、甚《はなは》だ平気《へいき》にして干渉《かんしょう》などの様子《ようす》なきのみならず、日本人においても敵味方《てきみかた》共《とも》に実際|干渉《かんしょう》を掛念《けねん》したるものはあるべからず。
 或は西南の騒動《そうどう》は、一個の臣民《しんみん》たる西郷が正統《せいとう》の政府に対して叛乱《はんらん》を企《くわだ》てたるものに過ぎざれども、戊辰《ぼしん》の変《へん》は京都の政府と江戸の政府と対立《たいりつ》して恰《あたか》も両政府の争《あらそい》なれば、外国人はおのおのその認《みと》むるところの政府に左袒《さたん》して干渉《かんしょう》の端《たん》を開くの恐《おそ》れありしといわんか。外人の眼を以て見《み》るときは、戊辰《ぼしん》における薩長人《さっちょうじん》の挙動《きょどう》と十年における西郷の挙動と何の選《えら》むところあらんや。等《ひと》しく時の政府に反抗《はんこう》したるものにして、若《も》しも西郷が志《こころざし》を得て実際《じっさい》に新政府を組織《そしき》したらんには、これを認むることなお維新政府《いしんせいふ》を認めたると同様なりしならんのみ。内乱の性質《せいしつ》如何《いかん》は以て干渉の有無《うむ》を判断《はんだん》するの標準《ひょうじゅん》とするに足《た》らざるなり。
 そもそも幕末の時に当りて上方《かみがた》の辺に出没《しゅつぼつ》したるいわゆる勤王有志家《きんのうゆうしか》の挙動を見れば、家を焼《や》くものあり人を殺《ころ》すものあり、或は足利《あしかが》三代の木像《もくぞう》の首を斬《き》りこれを梟《きょう》するなど、乱暴狼籍《らんぼうろうぜき》名状《めいじょう》すべからず。その中には多少|時勢《じせい》に通じたるものもあらんなれども、多数に無勢《ぶぜい》、一般の挙動はかくのごとくにして、局外より眺《なが》むるときは、ただこれ攘夷《じょうい》一偏の壮士輩《そうしはい》と認めざるを得ず。然《しか》らば幕府の内情は如何《いかん》というに攘夷論《じょういろん》の盛《さかん》なるは当時の諸藩《しょはん》に譲《ゆず》らず、否《い》な徳川を一藩として見れば諸藩中のもっとも強硬《きょうこう》なる攘夷《じょうい》藩というも可なる程《ほど》なれども、ただ責任《せきにん》の局に在《あ》るが故《ゆえ》に、止《や》むを得ず外国人に接して表面《ひょうめん》に和親《わしん》を表したるのみ。内実は飽《あ》くまでも鎖攘主義《さじょうしゅぎ》にして、ひたすら外人を遠《とお》ざけんとしたるその一例をいえば、品川《しながわ》に無益《むえき》の砲台《ほうだい》など築《きず》きたるその上に、更《さ》らに兵庫《ひょうご》の和田岬《わだみさき》に新砲台の建築《けんちく》を命じたるその命を受けて築造《ちくぞう》に従事せしはすなわち勝氏《かつし》にして、その目的《もくてき》は固《もと》より攘夷《じょうい》に外ならず。勝氏は真実《しんじつ》の攘夷論者に非ざるべしといえども、当時《とうじ》の勢《いきおい》、止《や》むを得ずして攘夷論を装《よそお》いたるものならん。その事情《じじょう》以《もっ》て知るべし。
 されば鳥羽《とば》伏見《ふしみ》の戦争、次《つい》で官軍の東下のごとき、あたかも攘夷藩《じょういはん》と攘夷藩との衝突《しょうとつ》にして、たとい徳川が倒《たお》れて薩長がこれに代わるも、更《さ》らに第二の徳川政府を見るに過《す》ぎざるべしと一般に予想《よそう》したるも無理《むり》なき次第《しだい》にして、維新後《いしんご》の変化《へんか》は或《あるい》は当局者においては自《みず》から意外《いがい》に思うところならんに、然《しか》るに勝氏は一身の働《はたらき》を以て強《し》いて幕府を解散《かいさん》し、薩長の徒《と》に天下を引渡《ひきわた》したるはいかなる考《かんがえ》より出でたるか、今日に至りこれを弁護《べんご》するものは、勝氏は当時|外国干渉《がいこくかんしょう》すなわち国家の危機《きき》に際して、対世界の見地《けんち》より経綸《けいりん》を定めたりなど云々《うんぬん》するも、果《はた》して当人《とうにん》の心事《しんじ》を穿《うが》ち得たるや否《いな》や。
 もしも勝氏が当時において、真実《しんじつ》外国干渉の患《うれい》あるを恐れてかかる処置《しょち》に及びたりとすれば、独《ひと》り自《みず》から架空《かくう》の想像《そうぞう》を逞《たくまし》うしてこれがために無益《むえき》の挙動《きょどう》を演じたるものというの外なけれども、勝氏は決してかかる迂濶《うかつ》の人物にあらず。思うに当時|人心《じんしん》激昂《げきこう》の際、敵軍を城下に引受《ひきう》けながら一戦にも及ばず、徳川三百年の政府を穏《おだやか》に解散《かいさん》せんとするは武士道の変則《へんそく》古今の珍事《ちんじ》にして、これを断行《だんこう》するには非常の勇気《ゆうき》を要すると共に、人心《じんしん》を籠絡《ろうらく》してその激昂《げきこう》を鎮撫《ちんぶ》するに足《た》るの口実《こうじつ》なかるべからず。これすなわち勝氏が特に外交の危機《きき》云々《うんぬん》を絶叫《ぜっきょう》して、その声を大にし以て人の視聴《しちょう》を聳動《しょうどう》せんと勉《つと》めたる所以《ゆえん》に非ざるか、竊《ひそか》に測量《そくりょう》するところなれども、人々の所見《しょけん》は自《おのず》から異《こと》にして漫《みだり》に他より断定《だんてい》するを得ず。
 当人の心事《しんじ》如何《いかん》は知るに由《よし》なしとするも、左《さ》るにても惜《お》しむべきは勝氏の晩節《ばんせつ》なり。江戸の開城《かいじょう》その事|甚《はなは》だ奇《き》にして当局者の心事《しんじ》は解《かい》すべからずといえども、兎《と》に角《かく》その出来上《できあが》りたる結果《けっか》を見れば大成功《だいせいこう》と認めざるを得ず。およそ古今の革命《かくめい》には必ず非常の惨毒《さんどく》を流すの常にして、豊臣《とよとみ》氏の末路《まつろ》のごとき人をして酸鼻《さんび》に堪《た》えざらしむるものあり。然《しか》るに幕府の始末《しまつ》はこれに反し、穏《おだやか》に政府を解散《かいさん》して流血《りゅうけつ》の禍《わざわい》を避《さ》け、無辜《むこ》の人を殺さず、無用《むよう》の財《ざい》を散ぜず、一方には徳川家の祀《まつり》を存し、一方には維新政府の成立《せいりつ》を容易
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