同時に、一方において更《さら》にロセツより申出《もうしい》でたるその言に曰《いわ》く、日本国中には将軍殿下《しょうぐんでんか》の御領地《ごりょうち》も少からざることならん、その土地の内に産《さん》する生糸《きいと》は一切|他《た》に出《いだ》さずして政府の手より仏国人に売渡《うりわた》さるるよう致《いた》し度《た》し、御承知《ごしょうち》にてもあらんが仏国は世界第一の織物国《おりものこく》にして生糸の需用《じゅよう》甚《はなは》だ盛《さかん》なれば、他国の相場《そうば》より幾割の高価《こうか》にて引受け申すべしとの事なり。一見他に意味《いみ》なきがごとくなれども、ロセツの真意《しんい》は政府が造船所《ぞうせんじょ》の経営《けいえい》を企《くわだ》てしその費用の出処《しゅっしょ》に苦しみつつある内情を洞見《どうけん》し、かくして日本政府に一種の財源《ざいげん》を与《あた》うるときは、生糸専売《きいとせんばい》の利益を占《し》むるの目的《もくてき》を達し得べしと考《かんが》えたることならん。
すなわち実際には造船所の計画《けいかく》と聯関《れんかん》したるものなれども、これを別問題《べつもんだい》としてさり気《げ》なく申出《もうしいだ》したるは、たといこの事が行われざるも造船所|計画《けいかく》の進行《しんこう》に故障《こしょう》を及ぼさしむべからずとの用意《ようい》に外ならず。掛引《かけひき》の妙《みょう》を得たるものなれども、政府にてはかかる企《たくら》みと知るや知らずや、財政|窮迫《きゅうはく》の折柄《おりから》、この申出《もうしいで》に逢うて恰《あたか》も渡《わた》りに舟《ふね》の思《おもい》をなし、直《ただち》にこれを承諾《しょうだく》したるに、かかる事柄《ことがら》は固《もと》より行わるべきに非ず。その事の知《し》れ渡《わた》るや各国公使は異口同音《いくどうおん》に異議を申込みたるその中にも、和蘭公使《オランダこうし》のごときもっとも強硬《きょうこう》にして、現に瓜哇《ジャワ》には蘭王《らんおう》の料地《りょうち》ありて物産《ぶっさん》を出せども、これを政府の手にて売捌《うりさば》くことなし、外国と通商条約《つうしょうじょうやく》を取結びながら、或《あ》る産物《さんぶつ》を或る一国に専売《せんばい》するがごとき万国公法《ばんこくこうほう》に違反《いはん》したる挙動《きょどう》ならずやとの口調《くちょう》を以て厳《きび》しく談《だん》じ込《こ》まれたるが故《ゆえ》に、政府においては一言《いちごん》もなく、ロセツの申出はついに行《おこな》われざりしかども、彼が日本人に信ぜられたるその信用《しんよう》を利用して利を謀《はか》るに抜目《ぬけめ》なかりしは凡《およ》そこの類《たぐい》なり。
単に公使のみならず仏国の訳官《やくかん》にメルメデ・カションという者あり。本来|宣教師《せんきょうし》にして久しく函館《はこだて》に在《あ》り、ほぼ日本語にも通《つう》じたるを以て仏公使館の訳官となりたるが、これまた政府に近《ちか》づきて利したること尠《すく》なからず。その一例を申せば、幕府にて下《しも》ノ関《せき》償金《しょうきん》の一部分を払うに際し、かねて貯《たくわ》うるところの文銭《ぶんせん》(一文銅銭)二十何万円を売り金《きん》に換《か》えんとするに、文銭は銅質《どうしつ》善良《ぜんりょう》なるを以てその実価《じっか》の高きにかかわらず、政府より売出すにはやはり法定《ほうてい》の価格に由《よ》るの外なくしてみすみす大損を招かざるを得ざるより、その処置《しょち》につき勘考中《かんこうちゅう》、カションこれを聞き込み、その銭《ぜに》を一手に引受《ひきう》け海外の市場に輸出し大《おおい》に儲《もう》けんとして香港《ホンコン》に送りしに、陸揚《りくあげ》の際に銭《ぜに》を積《つ》みたる端船《たんせん》覆没《ふくぼつ》してかえって大に損《そん》したることあり。その後カションはいかなる病気《びょうき》に罹《かか》りけん、盲目《もうもく》となりたりしを見てこれ等の内情を知れる人々は、因果《いんが》覿面《てきめん》、好《よ》き気味《きみ》なりと竊《ひそか》に語《かた》り合いしという。
またその反対《はんたい》の例を記《しる》せば、彼《か》の生麦事件《なまむぎじけん》につき英人の挙動《きょどう》は如何《いかん》というに、損害要求《そんがいようきゅう》のためとて軍艦を品川に乗入《のりい》れ、時間を限《かぎ》りて幕府に決答《けっとう》を促《うなが》したるその時の意気込《いきご》みは非常《ひじょう》のものにして、彼等の言を聞けば、政府にて決答を躊躇《ちゅうちょ》するときは軍艦より先《ま》ず高輪《たかなわ》の薩州邸《さっしゅうてい》を砲撃《ほうげき》し、更《さ》らに浜御殿《はまごてん》を占領《せんりょう》して此処《ここ》より大城に向て砲火《ほうか》を開き、江戸市街を焼打《やきうち》にすべし云々《うんぬん》とて、その戦略《せんりゃく》さえ公言《こうげん》して憚《はば》からざるは、以て虚喝《きょかつ》に外ならざるを知るべし。
されば米国人などは、一個人の殺害《さつがい》せられたるために三十五万|弗《ドル》の金額を要求するごとき不法《ふほう》の沙汰《さた》は未《いま》だかつて聞かざるところなり、砲撃《ほうげき》云々《うんぬん》は全く虚喝《きょかつ》に過《す》ぎざれば断じてその要求を拒絶《きょぜつ》すべし、たといこれを拒絶《きょぜつ》するも真実《しんじつ》国と国との開戦《かいせん》に至《いた》らざるは請合《うけあ》いなりとて頻《しき》りに拒絶論《きょぜつろん》を唱《とな》えたれども、幕府の当局者は彼の権幕《けんまく》に恐怖《きょうふ》して直《ただち》に償金《しょうきん》を払《はら》い渡《わた》したり。
この時、更《さ》らに奇怪《きかい》なりしは仏国公使の挙動《きょどう》にして本来《ほんらい》その事件には全く関係《かんけい》なきにかかわらず、公然書面を政府に差出《さしいだ》し、政府もし英国の要求を聞入《ききい》れざるにおいては仏国は英と同盟して直《ただち》に開戦《かいせん》に及《およ》ぶべしと迫《せま》りたるがごとき、孰《いずれ》も公使一個の考《かんがえ》にして決して本国政府の命令《めいれい》に出でたるものと見るべからず。
彼《か》の下ノ関|砲撃事件《ほうげきじけん》のごときも、各公使が臨機《りんき》の計《はから》いにして、深き考ありしに非ず。現《げん》に後日、彼の砲撃に与《あずか》りたる或《あ》る米国士官の実話《じつわ》に、彼の時は他国の軍艦が行《ゆ》かんとするゆえ強《し》いて同行したるまでにて、恰《あたか》も銃猟《じゅうりょう》にても誘《さそ》われたる積《つも》りなりしと語りたることあり。以てその事情を知るべし。
右のごとき始末《しまつ》にして、外国政府が日本の内乱に乗《じょう》じ兵力《へいりょく》を用いて大《おおい》に干渉《かんしょう》を試みんとするの意志《いし》を懐《いだ》きたるなど到底《とうてい》思《おも》いも寄らざるところなれども、当時《とうじ》外国人にも自《おのず》から種々の説を唱《とな》えたるものなきにあらずというその次第《しだい》は、たとえば幕府にて始めに使節《しせつ》を米国に遣《つか》わしたるとき、彼の軍艦|咸臨丸《かんりんまる》に便乗《ぴんじょう》したるが、米国のカピテン・ブルックは帰国の後、たまたま南北戦争の起るに遇《あ》うて南軍に属し、一種の弾丸《だんがん》を発明《はつめい》しこれを使用してしばしば戦功を現《あら》わせしが、戦後その身の閑《かん》なるがために所謂《いわゆる》脾肉《ひにく》の嘆《たん》に堪《た》えず、折柄《おりから》渡来《とらい》したる日本人に対し、もしも日本政府にて余《よ》を雇入《やといい》れ彼《か》の若年寄《わかどしより》の屋敷《やしき》のごとき邸宅《ていたく》に居るを得せしめなば別《べつ》に金《かね》は望まず、日本に行《ゆき》て政府のために尽力《じんりょく》したしと真面目《まじめ》に語りたることあり。
また維新の際にも或《あ》る米人のごとき、もしも政府において五十万|弗《ドル》を支出《ししゅつ》せんには三|隻《せき》の船を造《つく》りこれに水雷を装置《そうち》して敵《てき》に当るべし、西国大名のごときこれを粉韲《ふんさい》[#ルビの「ふんさい」は底本では「ふんせい」]する容易《ようい》のみとて頻《しき》りに勧説《かんせつ》したるものあり。蓋《けだ》し当時南北戦争|漸《ようや》く止《や》み、その戦争《せんそう》に従事したる壮年《そうねん》血気《けっき》の輩《はい》は無聊《ぶりょう》に苦しみたる折柄《おりから》なれば、米人には自《おのず》からこの種《しゅ》の輩《はい》多《おお》かりしといえども、或《あるい》はその他の外国人にも同様《どうよう》の者ありしならん。この輩のごときは、かかる多事紛雑《たじふんざつ》の際に何か一《ひ》と仕事《しごと》して恰《あたか》も一杯の酒を贏《か》ち得《う》れば自《みず》からこれを愉快《ゆかい》とするものにして、ただ当人|銘々《めいめい》の好事心《こうずしん》より出でたるに過ぎず。五十万円[#「円」に「ママ」の注記]を以て三隻の水雷船《すいらいせん》を造り、以て敵を鏖《みなごろし》にすべしなど真に一|場《じょう》の戯言《ぎげん》に似《に》たれども、何《いず》れの時代にもかくのごとき奇談《きだん》は珍らしからず。
現に日清戦争《にっしんせんそう》の時にも、種々の計《はかりごと》を献《けん》じて支那政府の採用《さいよう》を求めたる外国人ありしは、その頃の新聞紙《しんぶんし》に見えて世人の記憶《きおく》するところならん。当時或る洋学者の家などにはこの種の外国人が頻《しき》りに来訪《らいほう》して、前記のごとき計画《けいかく》を説き政府に取次《とりつぎ》を求めたるもの一にして足《た》らざりしかども、ただこれを聞流《ききなが》して取合《とりあ》わざりしという。もしもかかる事実《じじつ》を以て外国人に云々《しかじか》の企《くわだて》ありなど認むるものもあらんには大なる間違《まちがい》にして、干渉《かんしょう》の危険のごとき、いやしくも時の事情を知《し》るものの何人《なんぴと》も認めざりしところなり。
されば王政維新《おうせいいしん》の後、新政府にては各国公使を大阪に召集《しょうしゅう》し政府|革命《かくめい》の事を告げて各国の承認《しょうにん》を求めたるに、素《もと》より異議《いぎ》あるべきにあらず、いずれも同意を表《ひょう》したる中に、仏国公使の答は徳川政府に対しては陸軍の編制《へんせい》その他の事に関し少なからざる債権《さいけん》あり、新政府にてこれを引受けらるることなれば、毛頭《もうとう》差支《さしつかえ》なしとてその挨拶《あいさつ》甚《はなは》だ淡泊《たんぱく》なりしという。仏国が殊《こと》に幕府を庇護《ひご》するの意なかりし一|証《しょう》として見るべし。
ついでながら仏公使の云々《うんぬん》したる陸軍の事を記《しる》さんに、徳川の海軍は蘭人《らんじん》より伝習《でんしゅう》したれども、陸軍は仏人に依頼《いらい》し一切|仏式《ふっしき》を用いていわゆる三兵《さんぺい》なるものを組織《そしき》したり。これも小栗上野介《おぐりこうずけのすけ》等の尽力《じんりょく》に出でたるものにて、例の財政《ざいせい》困難《こんなん》の場合とて費用の支出《ししゅつ》については当局者の苦心《くしん》尋常《じんじょう》ならざりしにもかかわらず、陸軍の隊長《たいちょう》等は仏国教師の言を聞《き》き、これも必要なり彼《か》れも入用なりとて兵器は勿論《もちろん》、被服《ひふく》帽子《ぼうし》の類に至るまで仏国品を取寄《とりよ》するの約束《やくそく》を結びながら、その都度《つど》小栗には謀《はか》らずして直《ただち》に老中《ろうじゅう》の調印《ちょういん》を求めたるに、老中等は事の要不要《よう
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