《ようい》ならしめたるは、時勢《じせい》の然《しか》らしむるところとは申しながら、そもそも勝氏が一身を以て東西の間に奔走《ほんそう》周旋《しゅうせん》し、内外の困難《こんなん》に当《あた》り円滑《えんかつ》に事を纒《まと》めたるがためにして、その苦心《くしん》の尋常《じんじょう》ならざると、その功徳《こうとく》の大《だい》なるとは、これを争《あらそ》う者あるべからず、明《あきらか》に認《みと》むるところなれども、日本の武士道《ぶしどう》を以てすれば如何《いか》にしても忍《しの》ぶべからざるの場合を忍んで、あえてその奇功《きこう》を収《おさ》めたる以上は、我事《わがこと》すでに了《おわ》れりとし主家の結末と共に進退《しんたい》を決し、たとい身に墨染《すみぞめ》の衣《ころも》を纒《まと》わざるも心は全く浮世《うきよ》の栄辱《えいじょく》を外《ほか》にして片山里《かたやまざと》に引籠《ひきこも》り静に余生《よせい》を送るの決断《けつだん》に出でたらば、世間においても真実、天下の為《た》めに一身を犠牲《ぎせい》にしたるその苦衷《くちゅう》苦節《くせつ》を諒《りょう》して、一点の非難《ひなん》を挟《さしはさ》むものなかるべし。
すなわち徳川家が七十万石の新封《しんぽう》を得て纔《わずか》にその祀《まつり》を存したるの日は勝氏が断然《だんぜん》処決《しょけつ》すべきの時機《じき》なりしに、然《しか》るにその決断ここに出でず、あたかも主家を解散《かいさん》したるその功を持参金《じさんきん》にして、新政府に嫁《か》し、維新功臣の末班《まっぱん》に列して爵位《しゃくい》の高きに居《お》り、俸禄《ほうろく》の豊《ゆたか》なるに安《やす》んじ、得々《とくとく》として貴顕《きけん》栄華《えいが》の新地位《しんちい》を占めたるは、独《ひと》り三河武士《みかわぶし》の末流として徳川|累世《るいせい》の恩義《おんぎ》に対し相済《あいす》まざるのみならず、苟《いやしく》も一個の士人たる徳義《とくぎ》操行《そうこう》において天下後世に申訳《もうしわけ》あるべからず。瘠我慢《やせがまん》一篇の精神《せいしん》も専《もっぱ》らここに疑《うたがい》を存しあえてこれを後世の輿論《よろん》に質《ただ》さんとしたるものにして、この一点については論者輩《ろんしゃはい》がいかに千言万語《せんげんばんご》を重《かさ》ぬるも到底《とうてい》弁護《べんご》の効《こう》はなかるべし。返《かえ》す返《がえ》すも勝氏のために惜《お》しまざるを得ざるなり。
蓋《けだ》し論者のごとき当時の事情《じじょう》を詳《つまびら》かにせず、軽々《けいけい》他人の言に依《よっ》て事を論断《ろんだん》したるが故《ゆえ》にその論の全く事実に反《はん》するも無理《むり》ならず。あえて咎《とが》むるに足《た》らずといえども、これを文字に記《しる》して新聞紙上に公《おおやけ》にするに至りては、伝《つた》えまた伝えて或は世人を誤《あやま》るの掛念《けねん》なきにあらず。いささか筆を労《ろう》して当時の事実を明《あきらか》にするの止《や》むべからざる所以《ゆえん》なり。
底本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」講談社学術文庫、講談社
1985(昭和60)年3月10日第1刷発行
1998(平成10)年2月20日第10刷発行
底本の親本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」時事新報社
1901(明治34)年5月2日発行
初出:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」時事新報社
1901(明治34)年5月2日発行
※誤り箇所は底本の親本にて確認しました。
※旧字の「竊」は、底本のママとしました。
入力:kazuishi
校正:田中哲郎
2006年11月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石河 幹明 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング