めたることならん、病《やまい》と称し飄然《ひょうぜん》熱海《あたみ》に去りて容易《ようい》に帰らず、使を以て小栗に申出ずるよう江戸に浅田宗伯《あさだそうはく》という名医《めいい》ありと聞く、ぜひその診察を乞《こ》いたしとの請求に、此方《このほう》にては仏公使が浅田の診察《しんさつ》を乞《こ》うは日本の名誉《めいよ》なりとの考にて、早速《さっそく》これを許《ゆる》し宗伯を熱海に遣《つか》わすこととなり、爾来《じらい》浅田はしばしば熱海に往復《おうふく》して公使を診察《しんさつ》せり。浅田が大医《たいい》の名を博《はく》して大《おおい》に流行したるはこの評判《ひょうばん》高かりしが為《ため》なりという。
さてロセツが何故《なにゆえ》に浅田を指名して診察《しんさつ》を求《もと》めたるやというに、診察とは口実《こうじつ》のみ、公使はかねて浅田が小栗に信用あるを探知《たんち》し、治療《ちりょう》に託してこれに親《した》しみ、浅田を介《かい》して小栗との間に、交通《こうつう》を開き事を謀《はか》りたる者にて、流石《さすが》は外交家の手腕《しゅわん》を見るべし。かくて事の漸《ようや》く進むや外国奉行《がいこくぶぎょう》等は近海巡視《きんかいじゅんし》など称し幕府の小軍艦に乗《じょう》じて頻々《ひんぴん》公使の許《もと》に往復《おうふく》し、他の外国人の知《しら》ぬ間に約束《やくそく》成立《せいりつ》して発表《はっぴょう》したるは、すなわち横須賀造船所《よこすかぞうせんじょ》の設立にして、日本政府は二百四十万|弗《ドル》を支出《ししゅつ》し、四年間|継続《けいぞく》の工事としてこれを経営《けいえい》し、技師職工は仏人を雇《やと》い、随《したがっ》て器械《きかい》材料《ざいりょう》の買入までも仏人に任《まか》せたり。
小栗等の目的《もくてき》は一意《いちい》軍備の基《もとい》を固《かた》うするがために幕末|財政《ざいせい》窮迫《きゅうはく》の最中《さいちゅう》にもかかわらず奮《ふるっ》てこの計画《けいかく》を企《くわだ》てたるに外ならずといえども、日本人がかかる事には全く不案内《ふあんない》なる時に際し、これを引受《ひきう》けたる仏人の利益《りえき》は想《おも》い見るべし。ロセツはこれがために非常《ひじょう》に利したりという。
かくて一方には造船所の計画《けいかく》成《な》ると同時に、一方において更《さら》にロセツより申出《もうしい》でたるその言に曰《いわ》く、日本国中には将軍殿下《しょうぐんでんか》の御領地《ごりょうち》も少からざることならん、その土地の内に産《さん》する生糸《きいと》は一切|他《た》に出《いだ》さずして政府の手より仏国人に売渡《うりわた》さるるよう致《いた》し度《た》し、御承知《ごしょうち》にてもあらんが仏国は世界第一の織物国《おりものこく》にして生糸の需用《じゅよう》甚《はなは》だ盛《さかん》なれば、他国の相場《そうば》より幾割の高価《こうか》にて引受け申すべしとの事なり。一見他に意味《いみ》なきがごとくなれども、ロセツの真意《しんい》は政府が造船所《ぞうせんじょ》の経営《けいえい》を企《くわだ》てしその費用の出処《しゅっしょ》に苦しみつつある内情を洞見《どうけん》し、かくして日本政府に一種の財源《ざいげん》を与《あた》うるときは、生糸専売《きいとせんばい》の利益を占《し》むるの目的《もくてき》を達し得べしと考《かんが》えたることならん。
すなわち実際には造船所の計画《けいかく》と聯関《れんかん》したるものなれども、これを別問題《べつもんだい》としてさり気《げ》なく申出《もうしいだ》したるは、たといこの事が行われざるも造船所|計画《けいかく》の進行《しんこう》に故障《こしょう》を及ぼさしむべからずとの用意《ようい》に外ならず。掛引《かけひき》の妙《みょう》を得たるものなれども、政府にてはかかる企《たくら》みと知るや知らずや、財政|窮迫《きゅうはく》の折柄《おりから》、この申出《もうしいで》に逢うて恰《あたか》も渡《わた》りに舟《ふね》の思《おもい》をなし、直《ただち》にこれを承諾《しょうだく》したるに、かかる事柄《ことがら》は固《もと》より行わるべきに非ず。その事の知《し》れ渡《わた》るや各国公使は異口同音《いくどうおん》に異議を申込みたるその中にも、和蘭公使《オランダこうし》のごときもっとも強硬《きょうこう》にして、現に瓜哇《ジャワ》には蘭王《らんおう》の料地《りょうち》ありて物産《ぶっさん》を出せども、これを政府の手にて売捌《うりさば》くことなし、外国と通商条約《つうしょうじょうやく》を取結びながら、或《あ》る産物《さんぶつ》を或る一国に専売《せんばい》するがごとき万国公法《ばんこくこうほう》に違反《いはん》し
前へ
次へ
全9ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石河 幹明 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング