ろうぜき》名状《めいじょう》すべからず。その中には多少|時勢《じせい》に通じたるものもあらんなれども、多数に無勢《ぶぜい》、一般の挙動はかくのごとくにして、局外より眺《なが》むるときは、ただこれ攘夷《じょうい》一偏の壮士輩《そうしはい》と認めざるを得ず。然《しか》らば幕府の内情は如何《いかん》というに攘夷論《じょういろん》の盛《さかん》なるは当時の諸藩《しょはん》に譲《ゆず》らず、否《い》な徳川を一藩として見れば諸藩中のもっとも強硬《きょうこう》なる攘夷《じょうい》藩というも可なる程《ほど》なれども、ただ責任《せきにん》の局に在《あ》るが故《ゆえ》に、止《や》むを得ず外国人に接して表面《ひょうめん》に和親《わしん》を表したるのみ。内実は飽《あ》くまでも鎖攘主義《さじょうしゅぎ》にして、ひたすら外人を遠《とお》ざけんとしたるその一例をいえば、品川《しながわ》に無益《むえき》の砲台《ほうだい》など築《きず》きたるその上に、更《さ》らに兵庫《ひょうご》の和田岬《わだみさき》に新砲台の建築《けんちく》を命じたるその命を受けて築造《ちくぞう》に従事せしはすなわち勝氏《かつし》にして、その目的《もくてき》は固《もと》より攘夷《じょうい》に外ならず。勝氏は真実《しんじつ》の攘夷論者に非ざるべしといえども、当時《とうじ》の勢《いきおい》、止《や》むを得ずして攘夷論を装《よそお》いたるものならん。その事情《じじょう》以《もっ》て知るべし。
 されば鳥羽《とば》伏見《ふしみ》の戦争、次《つい》で官軍の東下のごとき、あたかも攘夷藩《じょういはん》と攘夷藩との衝突《しょうとつ》にして、たとい徳川が倒《たお》れて薩長がこれに代わるも、更《さ》らに第二の徳川政府を見るに過《す》ぎざるべしと一般に予想《よそう》したるも無理《むり》なき次第《しだい》にして、維新後《いしんご》の変化《へんか》は或《あるい》は当局者においては自《みず》から意外《いがい》に思うところならんに、然《しか》るに勝氏は一身の働《はたらき》を以て強《し》いて幕府を解散《かいさん》し、薩長の徒《と》に天下を引渡《ひきわた》したるはいかなる考《かんがえ》より出でたるか、今日に至りこれを弁護《べんご》するものは、勝氏は当時|外国干渉《がいこくかんしょう》すなわち国家の危機《きき》に際して、対世界の見地《けんち》より経綸《けいりん》を
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