旱天實景
下村千秋
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)あんな娘《あま》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)どくだみ[#「どくだみ」に傍点]草が
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ギリ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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一
桑畑の中に、大きな葉をだらりと力なく垂れた桐の木に、油蝉がギリ/\啼きしきる午後、學校がへりの子供が、ほこりをけむりのやうに立てゝ來る――。
先に立つた子が、飛行機の烟幕だといひながら熱灰が積つたやうなほこりの中を、はだしの足で引つ掻きながら走る。ほこりは、子供のうしろに尾を引いてもん/\と黒くなるほど舞ひ上る。うしろの子供等は、敵機追撃だと叫びながら口でうなりを立てゝ、ほこりの中に走りこむ。幾つかの影が、一時まつたくほこりの中に消えて、やがて一つ一つ、兩手を掻き廻しながら、こちらへ拔け出して來る。それからみんなほこりで眞黒になつた口を開けて一せいに『ワーツ……』と譯もなく喚聲をあげる。その聲は、何の反響もなくほこりの中に吸ひこまれてしまふ。さうして子供とほこりの群は畑道から畑道へ移つて行く。
舞ひ上つたほこりは、赤黄ろく畑の上にひろがつて、しばらくは、ぢつと動かない。それがいつか桑の葉に、岡穗の葉に、玉蜀黍の葉に、その青さを消すほどに白く積つて、そこらが稍々透明になると、そこへメロメロと陽炎が立ち、白い道はまたヂリ/\と焦げはじめる。
村の入口の道端に生へひろがつたどくだみ[#「どくだみ」に傍点]草が、頭までほこりの中につかつて、息もつけなささうに土にまみれてゐる。それがまた堪らなくむせつぽく、もう幾十日、雨一滴降らない炎天の日がつゞいてゐることを思はせた。
二
ほこりと子供の一團が村の森の中に消えてからしばらくして、またほこりと人の長い列が畑の中道を動いて來る。二里ほどある雷神樣へ雨乞ひに行つた村の人人のかへりである。
彼等は今日で五日間、二里の道を往復して雨乞ひをしてゐるのである。菅笠、麥藁帽、蝙蝠傘、それらの行列は、默々として、葬式の列のやうにして歩いて來る。彼等は、既に穗ばらんでそのまゝ枯れかかつた田の稻を、畑の岡穗を、見る度に嘆聲をもらしつゝ毎日の雨乞をつゞけて來たが、今日はもう、嘆聲すら出せなくなつてゐる。
『ヤーレ、もつとそろつと歩け、ほこりが堪んねよ。』
『いくらそろつと歩いても、ほこりの方で舞ひ上んだよ。』
みんな變に氣むずかしくなつてゐる。ぐつたりと萎へしほれた畑作の一面に、風一つ渡る氣配なく、土色に濁つた空氣がもーツとひろがつてゐる。それが上部に行くにつれて、濁つた紫色に、更らに高くなつてギラ/\とした青さに、そしてその中心に、燒きついたやうにして太陽が輝いてゐる。彼等のうちの誰でも、そこまで眼を移して行つたなら、めまひを起してその場に卒倒するばかりである。彼等は先刻の子供等と違ひ最早太陽を見ることを病的に怖れてゐる。
只土の上を見て歩いてゐる。が、その土は一足一足毎にぷかり/\と舞ひ立ち、むつとした草いきれと一緒に、脛から股から胸から顏へ匍ひ上り、たく/\流れる汗へ飛びついて來る。眞黒な汗が、襟筋から胸へツル/\流れ落ちる。それを拭きもせずに歩いてゐると、耳が變にガーンとして來て、眼が眞赤に充血して來る。その眼に、ギラ/\照り輝いてゐるほこりの道がカーツと迫つて來る。瞬間、氣が狂ひさうになる。
『アーツ、水だ、水だ!』雷神樣の噴井戸からいたゞいた水を各自が竹筒に入れて持つてゐる、その水を飮まうとする。
『それを飮んでなるものか、今までの雨乞が臺なしになつちまうわ。』と、一人が言ふ。
『オーイ、もつとはやく歩け。雷神樣ア、のろまが大嫌ひだと。』向うで誰かが怒鳴る。
『何をぬかす。今になつて急いだつて間に合ふか。』
『さうよ、もうはア稻も岡穗も刈り飛ばして、みんな馬に喰はせつちまへばいゝだ。』
『それでみんな首を吊つて死ねばいゝだ。』
『それでおしまひだ。』
『あれを見ろ、おしんのあま、いゝ氣になつて達公の手をつかめえて歩いてやがら。』
『あの肥つちよの乳のところをえぐり拔いて血祭りでもすると、雨は今日がうちにも降るで。』
『われがそれをやつて見ろ。』
『何が出來るもんか、こいつ、あいつに惚れてんだよ。』
『馬鹿野郎。』
『何を!』
『うるせい、默つてドシ/\歩け!』
ほこりの中のわめき合ひはそれで消えて、行列はまた默々と動いて行く。
三
と、うしろの方で變に鋭どい叫び聲があがる。五、六人が一かたまりになつて押し合ふやうなことをしてゐる。そこへわた/\走つて行く若者がある。立ち停つて見てゐるものがある。その間にも一休みしようと道端の草へべつたりと坐つて、ハー/\と苦しさうな息を吐く老人がある。さうして行列の進行は一時止る。
達吉の手につかまつて辛うじて歩いてゐたおしんが、唇まで青くして急にバタリと地べたへ倒れたのである。眼を白くし、身體中を細かく顫はしてゐる。膝の上までほこりが眞黒にひつついた兩脚をしやつきりとふんぞつてゐる。それを見るとみんなむせかへるやうな氣持になる。
『おしんさんよオ……おしんさんよオ……』女達が傍で叫ぶ。
『それ、顏へ傘を差しかけてやれよ。』さう言ふものがある。
『醫者どんを呼ばつて來ざなるめえ。』
『こんな場所へ醫者どんが來るもんかよ。』
『ソレ、水を、水を飮ませろ。』
『オ、オツ。雷神樣からいたゞいた水を飮ませてなるもんかよ。』
『それだつて仕樣があんめえ。』
『仕樣があんめえつて、そんなことがなるもんか。』
『人の命を助ける水だもの、何が惡いか。』
『いけねえ/\、一たらしだつて外のことに使つたら今までの願が臺なしになつちまふ――いくら人の命を助けるだつて、そいつア俺が使はせねえ。』
『ぐづ/\してる間に、はやく村へ連れて行けよ。ソラお前は頭だ、お前はそつちの手……』
『そんなことで運べるもんか、誰か、達さんがいい、お前おぶつて行け。』
『おしんさんよ、おしんさんよ、氣、しつかり持てよ。』
死んだやうな行列はそこで急に活氣づき、周圍にほこりのけむりを一層舞ひ上げながら、村の森へ入つて行く。
四
村の入口の樹蔭に殘つた四五人は、傘をつぼめ、麥藁帽を脱ぎ、肌を脱いで、草の上に脚をなげ出し、大きな聲で言ひ合ふ。
『俺がいふこと間違つてるかよ。雨乞ひにいたゞいて來た水が、人の命を助ける譯はあんめえ。萬が一、あの水を飮んでおしんの命が助かつたつても、そのために五日もやつた雨乞ひがペケになつたらどうするんだい。雨が降らなければ村中……村中どころか、日本中の人の命が助かるめえ。おしん一人が命のためにそんなことは出來る譯がねえよ。』
『そらさうだが、雨の降る樣子はどこにもあんめえ。俺等が死ぬまで願をかけたつて、降らねえ時は降らねえんだ。そんならいつそ……』
『馬鹿こけ、そんな心掛けだからこんな日でりがつゞくだ。三峯山から三日三晩歩き通しでいたゞいて來た水でも、一たらし外のことに使つたらもう御利益はねえだ。そんな大事な水を、あんな娘《あま》の――父親のわからねえ餓鬼を二人もなしたやうな娘のために使つて堪るもんか。』
『また誰かの餓鬼を孕んでんだとよ。』
『さうか、あの娘《あま》が、また!』
『どうしたら子供をおろせるかつて、泣きながら俺らおふくろに相談したちうよ。』
『どうだオイ、そんな娘《あま》が可哀相かよ。』
『お前はまたひどくおしんがこと惡く言ふで、肘鐵砲でも喰つたと見《め》えら。』
『ぶんなぐるぞ。』
『アハヽヽヽ。』
『こんだア、誰の餓鬼だんべ。』
『何でも茂右衞門どんの伜だちうよ。』
『あの野郎かえ、太い野郎だ。四五年前にやあの茂右衞門親爺が、多助どんの嚊をぬすんでよ、それでたつた酒三升で濟したちうだ。地主だ、總代だなんどと威張つてやがつて、太《ふて》え親子だ。雨乞ひにだつて一昨日《おとてえ》から出やしねでねえか。』
『二年や三年飢饉がつゞいたつて、あすこぢや平氣だかんな。銀行にしこたま預けてあんだから。』
『くそ、そんな野郎は村からおん出しちまへ。』
『おん出しちまつて、田地をみんなで分けつこしちまうんだな。』
『そらいゝや。俺が眞先きに、一番いゝ所をぶん取つてやらア。』
『さうはいかねえ、さうなつたら籤引きだ。』
『籤引は面白くねえ。角力で一番強いもんだ。』
『角力はいけねえ、駈けつこだ。』
『ナニかけつこなんぞ駄目だ。俵かつぎで一番力持ちが勝だ。』
かうして彼等の話は果しなくつゞく。頭の上では蝉がヂン/\啼きしきる。
五
中天に焦げついたやうな太陽もいつか傾いた。眞赤に溶けた光を投げながらヂリ/\と田圃の彼方の雜木林の上に落ちて行くと、大空一面に狐色の夕映えが漲り、明日もまた旱天が間違ひなく來ることを思はせる。枯れそめて所々黄ばんで來た稻田の上にも、乾からびた葉を縮めて何の艷もなくなつた畑作の上にも、夕靄がホーツと浮ぶころ、村の森では、今日もよく日が照り、よく乾いたことを喜ぶやうに、蜩が一せいに、カナ/\/\と啼く。この森で一しきり啼くと、それに答へるやうに向うの森でまた一せいに啼く。
やがて梟が闇を吐き出すやうにホーツ、ホーツと啼き出して、村は森とした夜に鎖される。蠶で夜遲くまで起きている家では、庭に縁臺を出し、傍に蚊やりを焚いてそこへ寢ころんでゐる。前の籔で、くつわ虫がガシヤ/\/\と乾いた音を立て始める。その音が燒けた石を磨り合せるやうにきこえて、僅かに湧いて來る夜の凉味をすつかり掻き消してしまふ。おしんの家から竹籔ひとつ隔てた家の主人莊吉とその女房は背中合せに縁臺へ寢そべつて、泥水の中の魚のやうに暑苦しい息を吐いてゐる。と、そこへ、
『おしんさんが惡いとよ、死にさうだとよ。』といふ知らせが傳はる。女房は起き上つて、
『そりやまア、けふ雨乞ひのかへりにかくらん[#「かくらん」に傍点]を起したちうが、まだ落ちつかねえのか。』
『なアーに、かくらんは直つただが、急に流産しただとよ。』
『やれまア、子供持つてたのかや。……これお父つアん、起きてちよつくらおしんさんが家サ行つて見てやれよ。』
莊吉はごろりと起きて、ふんぞりかへり大欠伸をして、それから門《かど》を出て行く。
おしんの父親は、座敷の薄暗いランプの下に一人あぐらをかいてグイ/\冷酒をあほつてゐる。
『もう駄目でがサ、さつき先生が來て見て行つただが、藥も盛らねえで歸つてしまつたでサ。』
さう言つてゐるうしろの座敷では、おしんの母親が絶え入りさうな聲で、おしんの名を呼びつゞけてゐる。
『駄目だとつて、うつちやつといちやなんねえ。町の醫者どんを頼んで來べえか。』と莊吉は言ふ。
『ナーニ、うつちやつとけ。もうはア、身體中の血が下りちまつて、指の先まで眞白になつちまつたんだからな、死んだと同じこつたよ。』
『おしんよー、おしんよー……』
『うるせい、默んねえか、死んだもんが、何で生きかへる、くそ!』と父親はうしろの座敷へ怒鳴りつける。
そこへ三四人の若者が、みんな肌ぬぎで入つて來る。卒倒したおしんに雨乞ひの水をやつていゝか惡いかを、村の出戸で夕方まで論じ合つてゐた連中である。
『お父つアん、話をつけて來たよ、安心しろ。』と上り框にドサリと腰を下しながら一人がいふ、
『こつちの權幕にびつくらしてな、茂右衞門の旦那、へイ/\だつけよ。あした銀行から金を下げて來て屆けやすから、今夜のところは穩やかにしてくれろ、といふ譯サ。その上、酒二升と肴を買はせることにして來たよ。そいつア今ぢきに屆けて來るかんな、今夜はまアそれで諦めるとしろよ、なアお父つアん。』
『お父つアん、こゝで酒なんど飮まれてなるもんかよ。』さう言ひながらおしんの母親が奧から出て來る。腹の方まではだかつた無地の單衣を引きずり、涙でべた/\になつた顏の中に、ぢく/\した眼を光らせ
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