よらなかつた。
やがて大粒の雨が四邊の樹の葉を打つてポツリポツリ降つて來た。つゞいて二閃三閃の雷光と共に大地を叩くやうな雷鳴がした。そしてものの一丁と歩かないうちに、大粒の雨は黒い棒のやうになつて一分の隙間もなく降り注いで來た。土の香がそこらに漂つた。
雨の「ワー」といふ音は、尖り切つた由藏の神経をかなり柔らげた。けれどその雨音は少しの高低もない平らな音であるだけ、やがて何の物音もない世界と同じ世界に返した。
親爺が棺の中からぬつと腕を差し延べて、咽喉の辺りを撫でるやうな氣が幾度もした。その度に彼は、うなじから咽喉に流れる雨を平手で拭つた。
と、後から骨ばかりの親爺がひよろひよろついて來るやうな氣がして來た。ぴたりぴたりといふ跫音が堪らなく氣になつた。彼は振り向いて見る勇氣は無論なかつた。先へ走ることも出來なかつた。やうやくその跫音は自分の草履の音だとわかつたとき彼は草履を捨てた。
地の底を歩いてゐるのか、黒雲の中を泳いでゐるのか解らないやうな氣持ちがしばらくつゞいた。背負つてゐる棺も、もう重いのか軽いのか解らなかつた。
雨は黒い棒の束となつて注いだ。それを絶ち切るやうに雷光がひつきりなしに閃めた。雷鳴はドヽヽヽヽと響きのない音をつゞけた。
狹い田甫を渡つて蘭※[#「てへん+茶」、72−18]場へ着いた。
由藏は棺を下さうとして兩足をうんと踏ん張つた。そのとたん、棺の中の親爺が手足を突つ張つたかのやうに棺がぐんと重くなつた。由藏はそのまゝべたりと尻餅をついた。同時に繩が切れて棺は横倒しに倒れた。由藏は立つて棺を起した。と、家を出るとき慌てゝ打ちつけた蓋の釘が、親爺の頭に押し拔かれてゐた。ぐらりと動いた白髮のうなじが見えた。雨は棺の中にもどーつと流れ込んだ。彼は慌てゝ萬能の峯で釘を打ちつけた。
由藏は蘭※[#「てへん+茶」、73−5]場の北の隅の藪の中を掘り始めた。軽い萬能では繁り盛つてゐる夏草の根が容易に切れなかつた。辛うじて三尺四方位の穴を一尺ほど掘つた。しかしそれからはどんなに掘つても穴は深まらなかつた。周圍に掘り上げた土が瀧なす雨に押し流されて、掘る傍から穴の底を埋めて行く。
由藏はそれでも根氣よく掘つた。泥が身体中にまみれて、まるで土の中から出て来た盲者のやうな姿になつた。眼だけが火のやうに光つた。
耳をつんざくやうな雷鳴が二つつゞけて
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